ワイルダー『深夜の告白』とケイン『殺人保険』

 先日、ビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944米,″Double Indemnity″)がBSPで放送されていたので、綺麗な映像で観直してみた。「フィルム・ノワール」の先駆的作品、「保険金殺人もの」の嚆矢、などと云われたりする作品だが、まずは配役がいい。
 後年のワイルダーアパートの鍵貸します』(1960)での抑えた演技が忘れがたいフレッド・マクマレイは、当時はB級映画にばかり出演していたらしいが、この作品で主役のウォルター・ネフに扮し、スターダムにのし上がった。ディートリクソン(トム・パワーズ)の後妻で悪女役のいわゆる″ファム・ファタール″フィリスを演ずるのはバーバラ・スタンウィックで、金髪のウィッグを着けて難しい役どころに挑んでいる。フィリスの継子役のローラはジーン・ヘザーズで、彼女もなかなかチャーミング。そしてネフの相棒バートン・キーズ役がエドワード・G・ロビンソン、彼の熱演ぶりがとりわけ印象に残る。矢継ぎ早に喋りまくる一方で、冷静な判断力も有するいわば「素人探偵」を、これ以上はないといっていいほど巧く演じている。その主役をも凌駕しそうな演技は、ワイルダー『情婦』(1957)で弁護士を演じたチャールズ・ロートンを髣髴させる。
 本作はワイルダーレイモンド・チャンドラーとの共同脚本で、チャンドラーのカメオ出演もある*1。しかしチャンドラーはかつて、本作の原作者であるジェームズ・M・ケインを「文学の屑肉(くずにく)」とまで扱き下ろしていたのだそうだ*2
 ケインの原作も、映画と同じく″Double Indemnity″(1943年に『スリーカード』の中の一篇として刊行)というタイトルで、これを直訳するならば「倍額保険」「倍額補償」などとなるのだろうが、その原作が蕗沢忠枝訳で新潮文庫に入ったとき、『殺人保険』という邦題で出ている(1962年刊)。その登場人物名も、映画とはちょっとずつ異なっており、例えば主役のネフは「ウオルター・ハフ」、ディートリクソンは「ハーバート・S・ナードリンガー」、といった具合だ。
 ストーリー展開にも違いがあって、原作ではハフがフィリスのみならず継子ローラにも恋をすることになっていて*3、これが後に活きてくることとなるし、ハフがナードリンガー殺害に手を染めた後(倒叙ものなので述べても問題なかろう)の苦悩を克明に描写しているのはむしろ原作の方で(映画版のネフはむしろ冷静)、その後にも大きな展開が待ち構えているし*4、キース(キーズ)はナードリンガーの「自殺」を初めから殺人によるものと疑っている*5。また原作では、キースが「君が好きだったんだぞ、ハフ」と言い、ハフが「僕もそうだった」と応じる場面(p.181)があるけれども、ここはやや唐突に感じられる。映画では序盤にネフがキーズに″I love you,too.″と伝える場面があって、これがクライマックスの伏線となっており、無理はないように感じられる。そして、これまでネフにばかりタバコの火を点けさせていたキーズが「初めて」ネフのタバコに火を点けてやるのだが、原作にないこの演出も秀逸だ。
 もっとも、映画とは大きく異なる原作のラストもたいへん魅力的で、そのラストについては、沢木耕太郎氏がエセーの中で紹介している。曰く、

 主人公のウオルターは、フィリスという名の金髪の、悪魔的な魅力を持つ美人と知り合うことで犯罪への道に足を踏み入れてしまう。彼女の夫に傷害保険をかけ、列車からの転落死を装った殺人によって保険金を詐取しようとするのだ。すべてがうまくいきかけるが、殺した男の実子でフィリスにとっては継子にあたる娘に、ウオルターが強く魅かれはじめることによって、事態は錯綜しはじめる。互いに裏切り裏切られ、すべてが露見し、破滅したウオルターとフィリスは、南へ行く船に乗り合わせる。このラスト・シーンは、外国の小説で描かれた「道行」の中でも、最も美しいもののひとつであると思われる。(沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」『バーボン・ストリート』新潮文庫1989:86)

 この後に沢木氏は蕗沢訳の一節を引き、それから、「人はいつ青年でなくなるのか。それは恐らく、年齢でもなく結婚でもなく、彼が生命保険に加入した時なのではあるまいか」(p.89)云々と書いている。
 ところでケインといえば、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(″The Postman always Rings Twice″ ; 1934)が最も有名で、これが遅咲きの(当時42歳)長篇デビュー作となった。『郵便配達』も複数回映画化されており、わたしは1946年のテイ・ガーネット版(ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー)と、1981年のボブ・ラフェルソン版(ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング)との2本を観たことがある。特に後者は、原作とはかなり異なっていて、ヒロインのコーラ(ジェシカ・ラング)に「悪女」といった雰囲気は殆どなく、しかも中盤以降は「恋の駆け引き」の様相を呈し始め、犯罪映画というよりは上質の恋愛映画のような仕上がりを見せている。
 なお『郵便配達』の方は最近も新訳が出ていて、2014年には7月に池田真紀子訳(光文社古典新訳文庫)が、9月には田口俊樹訳(新潮文庫)が刊行されている(田口氏はケイン『カクテル・ウェイトレス』も翻訳し、『郵便配達』と同時刊行している)。
 ちなみに池田訳の「訳者あとがき」によると、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルについて、ケイン本人が次のように記しているのだそうだ。

(ケインは)『殺人保険』のまえがきで、友人の脚本家ヴィンセント・ローレンスとの会話がヒントになったと書いている。ローレンス宅に来る郵便配達員はいつも二度ベルを鳴らすので、玄関を開ける前から出版可否の通知が届いたのかもしれないとわかるという話を聞き、自分の新しい小説にぴったりだと閃いたのだという。なぜかと言えば、『郵便配達』の重要な出来事はすべて二度ずつ起きているからだ。(pp.241-42)

 但しこの「まえがき」は、上に見た蕗沢訳の新潮文庫では訳出されていない。

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バーボン・ストリート (新潮文庫)

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*1:開始約14分にネフがキーズの事務所を出るシーンがあって、その出入口脇でタバコ片手に雑誌を読み耽っているのがチャンドラーである。

*2:田口俊樹訳『カクテル・ウェイトレス』(新潮文庫2014)の訳者あとがきなどによる。ちなみに、同書に附されたチャールズ・アルダイ「解説」によると、「彼(チャンドラー)は彼一流の雄弁さと辛辣さで次のように書いているーー″ケインは私が嫌悪する作家のあらゆる特性を備えている……彼は油じみたオーヴァーオールを着たプルーストであり、板塀のまえでチョークを持つ薄汚い小僧だ。そんなやつなど誰も見向きもしない″」(pp.504-05)。これに続けてアルダイ氏は次のように書いている。「明らかにチャンドラーはまちがっている。彼はもちろんケインを誹謗して言ったのだろうが、ケインにはチャンドラーの非難それ自体がそのまま勲章になっている。そして、ケインは誰からも″見向き″されていた」。

*3:映画版でも、ネフはローラに好意を寄せるが、それは恋愛感情とはおよそ異なるものである。

*4:さきに述べたように、ハフがローラも好きになることが、この後の展開に関わってくる。

*5:映画版でキーズは初め「事故死」だと考える。また原作のキースは「わたし自身の六感と、直感と、経験きり」(新潮文庫版p.107)を信ずるが、映画のキーズは、ーーこれは「六感」と似たようなものなのかもしれないがーー自分の胸のなかの″my littleman″に常に問いかける、という設定である。そしてキースは「大男で、でぶで、気難かしやで、おまけに理窟屋」(同p.99)と描写されるが、キーズ=エドワード・G・ロビンソンは、「気難かしやで、おまかに理窟屋」ではあるけれどもやや小男で、「でぶ」というよりは小太りである。