内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)

「学ぶ側」の個性や創造性は、それぞれの誤解の仕方においてのみ発揮されるという主張に、ハッとしました。読んでいる途中は、内容がひどく迂回しているとしかおもえないのですが、読み終えてから、それが内田氏の戦略であったことに気づかされます。
『死と身体』(医学書院)の冒頭でもふれられている「あべこべことば」にまで話が及び、薄いながらもお買い得感のある一冊になっています。
ところで、内田氏のいわゆる「あべこべことば」とは何ぞや。これは例えば、嵐山光三郎さんの『口笛の歌が聴こえる』(新風舎文庫)の一節を引いておけば、すぐお分りになるのではないかとおもいます(内田氏の挙げている「好き」の例とまったく合致するものが、私がいま読んでいる本にたまたまあったので、ついでに引いておくというわけです)。
「私のこと好きだから、こうして、ウィスキー飲んでるんでしょ」(雪子の台詞―引用者)
「じゃ、きみも、オレのこと好きですか」(英介の台詞―引用者)
「そりゃ、好きよ」
(中略)
英介は、
(じゃ、すぐホテルに行こうか。やりに)
という言葉が出かかって、あわててやめた。雪子が「好きだ」という意味を、単なる友人の意味に使っているように思えたからだった。(p.99)
お分りでしょうか? 「好き」という言葉には、相反するふたつの意味があるわけです。聞き手は、その場の状況などから、どちらの「好き」であるかを判断するというわけです。これが「あべこべことば」。
それにしても、「ちくまプリマー新書」は、実際にハイティーンが読んでいるのでしょうか? どうも、大人たちが買って読んでいるような気がしてならないのです。