あの人は「人物」だ

魔の山〈上〉 (岩波文庫)
「人物」の好例が、トーマス・マン 関泰祐・望月市恵訳『魔の山』(岩波文庫,1988)にあります。以下に挙げるものは、主人公ハンス・カストルプが、ピーター・ペーペルコルンの人となりについて述べたくだりです。
ちなみにこのぺーペルコルンは、客観的にみても「茫漠としているが、印象づよく、人間的に大きい人物であった。ベルクホーフの客たちは、ペーペルコルンにすっかり興味を持ってしまった」(下巻。以下おなじ、p.362)というような人物でした。

「(略)僕は『馬鹿』と『利口』とを区別することが・・・・どんなにむずかしいことか、それをいいたかったのです。(中略)そして、肉体的なものは精神的なものに、精神的なものは肉体的なものにかわって、どちらとも区別ができなくなり、馬鹿だか利口だかも区別ができなくなるのですが、作用が、ダイナミックな作用が働いて、僕たちはみんな一にぎりにされてしまうのです。それをいいあらわす言葉は一つだけあって、それは『人物』という言葉です。この言葉は常識的な意味にも使われていて、そちらの意味からは僕たちはだれも人物です。―道徳上、法律上、そして、そのほかの点で人物です。しかし、僕がいうのはそういう人物ではないのです。僕がいうのは、馬鹿とか利口とかを超越した神秘という意味での人物で、この神秘はやはり考えてみる必要があると思うのです、(後略)」(p.415-417)

ここで訳出されている「人物」は、あきらかに〈プラス値〉をもっています。むろん、これは単に〈偉い人物〉の意味である、とするわけにはいかないのですが。