「蟲、蟲、蟲…」

今日は、ガイダンスと飲み会がありました。いま、ちょっとお酒が入っているので、あるいは支離滅裂なところがあるかもしれません。ご寛恕を請う次第です。
朝、内田百輭『冥途』を再読。集英社版全集所収。私の好きな掌編。「新小説」(大正十年一月号)に発表されたもの。巻末の「作家と作品」で、中野好夫が書いているように、「『冥途』の魅惑を説明することは困難」だ。
また、きのう頂いた略字についての論文を再度読む。「虫」と「蟲」とは本来別字*1、という箇所で、江戸川乱歩『蟲』を想起する。私は乱歩マニアではないのだが、ポプラ社の少年探偵団シリーズや、文庫を幾つか持っていて、『蟲』の入っている文庫は三冊所有している。まず、『D坂の殺人事件』(創元推理文庫,1987)と『不思議な話1 江戸川乱歩*2河出文庫,1994)。しかし、これらはタイトルが『虫』となっていて、かの有名な一文「蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ」も全部「虫」となっている。しかも、その「虫」が二十四個しかない。一体何を底本としているのか。ここは視覚に訴えかける部分だのに、「虫、虫、虫…」ではいかにも迫力に缺ける。しかし、光文社文庫版『押絵と旅する男』では、ちゃんと「蟲」になっている。
午食を家で済ませてから、大学へ。まだ満開には程遠いが、桜が綺麗だ。
電車のなかで、堀江敏幸『河岸忘日抄』(新潮社)を読む。堀江氏の小説を読むのは、これで三冊め。心にのこる文章がたくさんある。たとえば、

弱さとは、(中略)おそらく他者への思いやりが自分をほんの少し自分でない方向へずらし、どこかべつのところへ追いやっていくような足場の組み方しかできないことではないだろうか。しかもそのずれは、ほとんど修復不可能である。弱さを引き受けた者は、たえず増幅するそのずれを取り込んで、なけなしの自分を支えていかなければならない。(p.20)

といった箇所に感銘をうける。
午後よりガイダンス。休憩中に某先生から、ある学術雑誌*3に寄稿された論文のコピーをいただく。「入門」的な内容であるが、たいへん興味ふかい。目次をみると、面白そうな文章ばかりだ。これは買うかも知れぬ。
午後五時より、一次会。八時頃から二次会。散会は午後十時十分。三次会に誘われたけれども、明日は大学へ行かねばならないので辞した。

*1:「虫」は本来、「キ」(クヰ)という字音を持つ字であって、「蛇」などの義。「蟲」こそが「チュウ」という字音をもつ文字である。『爾雅』に「釋蟲」第十五があり、「有足謂之蟲、無足謂之豸」との註記がみえる。しかし、唐代の『干禄字書』はすでに「虫」を俗字、「蟲」を正字とし、これらを同字と見なしている(ただし、一考を要する)。また、「糸」と「絲」も本来別字である。「糸」は「シ」ではなく、「ベキ」という字音をもつ漢字である。頼惟勤『中国古典を読むために』(大修館書店)の一四一頁〜一四二頁を参照のこと。このテの「衝突」現象は、ほかにも沢山ある。

*2:この「不思議な話」シリーズには、ほかに夏目漱石などがあった。

*3:今月号。私はこの雑誌を、まだ三冊しか持っていない。