「新訳」の魅惑

やや唐突かもしれませんが、私は、「寝床(又はトイレ)で読む本」「居間で読む本」「研究室で読む本」「電車のなかで読む本」をわりと厳密に分けています*1。もちろん「研究室で読む本」はぜんぶ専門書(または演習でつかう本)で、「寝床で読む本」には短篇集やエッセイなどが多いのですが。
今、いわゆる「お供本」(≒「電車のなかで読む本」)は三冊あって、うち一冊は専門的な本なのですが、あとの二冊は獅子文六『食味歳時記』(文春文庫*2)と、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(創元推理文庫)です。
『食味歳時記』を再読しているのは何故かというと、某先生のご発表に登場してなつかしくおもったからなのですが、『ねじの回転』を読み始めているのは、これが「新訳」であるから―、というその一点に尽きます。訳者は、南條竹則さんと坂本あおいさんです。ちなみに、南條氏は最近、『中華文人食物語』(集英社新書)という新書も上梓されました。
「『新訳』だから」というのは、挫折した本やなんとなく敬遠していた本に(再度)アプローチするためのよい「言い訳」にもなるわけですが、それがかえって好もしい結果をまねく場合が多いのもまた事実です(あくまでも私の経験上のことですが)。
最近の例でいうと、八木敏雄訳の『白鯨』(岩波文庫)、鴻巣友季子*3嵐が丘』(新潮文庫)は、読んで良かったとおもえる達意の訳文でした。
『ねじの回転』はまだ読み始めたばかりで、怖くもなんともないのですが、難解と言われるわりには、非常に読みやすい。新潮文庫版や岩波文庫版と読み比べたわけではないので、あくまで主観的な印象なのですが。
ところで最近、稲垣足穂少年愛の美学』を読んでいたら、その「はしがき」に、以下のような文章が出てきました。『ねじの回転』つながりで、引いておくことにします。

私も又、かねて創作の題名として思いついていた『痔の記憶』を以て、応酬した。たとえばムソルグスキー組曲に『展覧会の絵』というのがある。ヘンリー・ジェームズの小説『ねじの廻転』も題名としては同じ系列だ。ところで、日本人におなじみの痔疾について、僕にはどんな経験もない。ご当人はずいぶん辛くて憂鬱だそうであるが、でも痔というものは、淋病だの消渇(しょうかち)だのに較べると、ずっと高尚で、ユーモラスな処があるのではないか。いまのスラヴ作曲家の楽譜は、亡友の画家ハルトマンの十種の絵を旋律化したのだとの話であるが、ジェームズの小説は、子供たちにだけそれが見えるという風変りな幽霊事件である。僕の『痔の記憶』にも、痔のことは何も出てこないが、そこがつまり僕自身の“The turn of the Screw”なのだ。

何べん読んでも、『展覧会の絵』と『ねじの廻転』がなぜ「題名としては同じ系列」だといえるのか、また、「僕自身の『ねじの廻転』」がどうして『痔の記憶』だということになるのかが、よく分りません(その後はスイスイ読めるのに)。まさか、ボリス・ヴィアンの『北京の秋』(未読ですが)も題名としては同系列だ―というわけではあるまい*4。『ねじの回転』を読み終えたときに、タルホの言わんとすることが分るというのでしょうか。

*1:ただし、寝食を忘れるほどおもしろく読んでいる本があれば、このかぎりでない。

*2:中公文庫版もありましたが、こちらも品切絶版のようですね。

*3:この訳文の印象については、永江朗『恥ずかしい読書』(ポプラ社)の「あとがき」が少しふれていたはずです。『嵐が丘』が出たすぐあとに刊行された鴻巣氏の『翻訳のココロ』(ポプラ社)は、やや気になりながらも未読です。

*4:つまり、「北京」のことも「秋」のことも出てこない、という意味において。