『中国語五十年』

晴れ。なかなか雨が降りません。
家で、演習準備および読書。
倉石武四郎『中国語五十年』(岩波新書,1973)読了。倉石氏は、漢文を(訓読ではなく)中国語で音読すべし、という考えを堅持した人で、『支那語教育の理論と実際』(岩波書店,1941)を著した頃から、その考え方は変っていません。一般には、『岩波中国語辞典』の編者として知られているかもしれません。また、国語審議会の副会長であったときには、漢字教育の問題について、朝日新聞紙上で石井勲氏と「対決」したこともあります(石井勲『漢字興国論』日本教文社,p.94-96参照*1)。
『中国語五十年』は、大きく二部に分かれており、第一部「中国語五十年」は、一九六八年五月十九日の講演会(於東京教育会館)がもとになっています。また、第二部「これからの中国語」は、日中国交正常化後、あらたに書下ろされたものです。
何と言っても圧倒されるのは、本に登場するその顔ぶれの豪華さです。
郭沫若青木正児(まさる)、吉川幸次郎、銭玄同、胡適魯迅、傅芸子、楊雪橋、趙元任、頼惟勤(つとむ)、牛島徳次藤堂明保*2…。吉川幸次郎先生や藤堂明保先生を「君」づけで呼んでいることに、なんとなく新鮮な驚きを感じたものでした。
さて、倉石氏はその「あとがき」を、

よくあいてのこころをとらえてこそ、たがいに手をにぎることができる。そのこころをとらえるための、ひとつの道はことばである。しかし、日本人はこの大切なことばを二千年に近く無視してきた。わたくしはいささかのいきどおりをこめてこの書物をまとめた。わたくしは、ふたたび、このような書物を書くだけの寿命を持たないであろう。したがって、これはわたくしの日本にたいする遺書ともいえよう。(p.188)

と結んでいます。これを書かれてから約三年後に、倉石氏は亡くなりました。しかし、この小さな書物に影響を受けた人は少なくないようで、私が一年間お世話になった某先生もそうでした。
遠藤光暁氏もそのひとりで、以下のように書いておられます。

倉石武四郎先生が編集しておられた雑誌『中国語』を,手元にあるものを見ると1972年の3月号から買い始めている。中学2年の時である。そして,その年の9月には田中角栄総理が劇的な訪中をし,その直行便が北京空港に到着して周恩来総理と共に儀杖隊を閲兵する所を中学校の図書室のテレビで昼休みに見た。
それが昂じて,高校に行かずに中国語を勉強する,という風変わりな人生選択をし,倉石先生の『中国語五十年』を父に示して,「このような先生がやっておられる学校ならば行ってよろしい」ということで単身上京して日中学院本科に入学したのが16歳の時のことである。その入学式に倉石先生も式辞を述べにおいでになったが,後ろに座っていた私にはまったくお声が聞き取れなかった。翌年には倉石先生はお亡くなりになられるが,歩行が困難なくらいの健康状態であられながら新しい世代に対する期待と責任感から杖をついてお出になられたことを今にして思うと改めて粛然とする。(遠藤光暁『中国音韻学論集』白帝社,2001,「あとがき」p.344)

*1:「対決」という表現は、やや正確でない。なぜなら審議会側(倉石氏)は、石井氏の反論にこたえていないので。

*2:倉石先生の後を継いで、日中学院長になりました。