◆君山狩野直喜の著作について、倉石武四郎『本邦における支那學の發達』(汲古書院)は、「先生は平生、著作を公にされず、わずかに「支那学文藪」昭和二年1927あるのみである」(p.91)と書いているが、これは昭和二十一年の時点であって、翌年には、前著の続篇的な性格を有した『讀書籑餘』(弘文堂)を刊行する。そして、その約九箇月後に亡くなるのである。
生前の刊行はこの二冊であるが(高田時雄「君山狩野直喜先生小傳」も参照)、『讀書籑餘』は文中の「支那」が「中國」その他に改めてあるので、引用参照する際には注意が必要である。たとえば、自序では前著のタイトルが『中國學文藪』となっているし、またこの著作に収めるところの「清朝地方制度」(pp.133-176)なる講演は、元々「支那地方制度」という題目で講ぜられたものである*1。さてこの「清朝(支那)地方制度」には、「尤も朝日新聞には中國通の方が居られますから、さう云ふ事は實際ないのでありますけれども、隨分他の新聞などに可笑な誤がある」(p.135)とあるのだが、「中國通」とは誰のことであろう。湖南内藤虎次郎が、丁度この年に、大阪朝日新聞社から京大史学科に抜擢されている。天囚西村時彦(ときつね)も大阪朝日新聞社の出身である。湖南にやや遅れて京大の講師となった(『讀書籑餘』には「西村天囚氏の追憶」という文章が収めてある)。彼は「天声人語」の生みの親であるともいわれるが(出典は不明)、社会部長にして小説家でもあった渡辺霞亭とともに、「なにはがた」という文藝雑誌を大阪で発刊してもいる。
◆渡部昇一 谷沢永一『読書有朋』(大修館書店)に、「ぼくは(清朝考証学一辺倒の―引用者)元凶は君山狩野直喜だと思うんですけど。コチコチの考証学オンリーで、自分のやり方以外は学者にあらずという感じで、君山からすれば、湖南でさえ学者じゃなかったわけですから」(p.22、谷沢永一の発言)とあるが、君山の「内藤君を偲んで」を読むかぎり、君山が湖南をそういう目で見ていたようにはどうもおもわれないのだけれど……
◆円満字二郎『昭和を騒がせた漢字たち――当用漢字の事件簿』(吉川弘文館)の「『青い山脈』の恋」(pp.14-30)に、「尋常小学校において、「恋」という漢字は、教えられることはなかった」にも拘らず(しかも「中学校や高等女学校でもなるべく教えない」にも拘らず)、「柳屋のご主人も宝屋のおかみさんも、「恋」という字を知っていた」のは、「教育という枠組み以外のところで漢字を覚えることがある」ことを示した典型例だ、というようなことが述べてある。
では当時(あるいはそれ以前)の人達は、いかなる媒体によって「恋」を覚えることになったのだろう。
こないだ読んだ柏原兵三『長い道』(中公文庫)には、「東京で本に飢えていた僕は、大人の講談本を友達に貸してもらって読んだことがあったのだ。初めて恋という言葉を知ったのもその「朝顔日記」を読んでからだった」(p.153)とある。なるほど読書少年ならそういうこともあるかもしれないとおもったが、活動写真などの映像から、という経路もおそらくあり得たはずである*2。映像を媒介とすることばや文字のイメージは、ストーリーや登場人物の動作と一体化して植え付けられることになるだろうから、きっと鮮烈であるに違いない。
二川文太郎『江戸怪賊傳 影法師』(1925,マキノ等持院)より。
「始めて恋を知り……恋を失った影法師」。字形もおもしろいが、この文字は何度も画面上に出て来る。
ここで、そういえば……とおもいだしたのが、「カルピスは初恋の味」というコピーである。藤沢桓夫『大阪自叙伝』(中公文庫)に、「初恋の味」という一章があり、そこにこのコピーの生みの親が驪城(こまき)卓爾であったことが明かされている。
CMという略語は、今日の世代の普通語みたいになってしまった。商品などの「歌い文句」の意だが、大正のころは無論だれもこの言葉を知らなかった。が、CMそのものは無論当時から存在した。そして、一世を風靡した当時のCMに、
「カルピスは初恋の味がする」
というのがあったことは、今日の若い人たちも恐らく知っていると思う。
この「初恋の味」という殺し文句を創造したのが、実はわが驪城先生だったのである。メーカーが先生の友人で、先生は宣伝文句を頼まれたらしかった。(p.68)
大正十一(1922)年のことである。これにクレームがついたというのもどこかで読んだ。いくら大正モダニズム全盛の時代とはいえ、あの赤玉ポートワインのヌードポスターしかり、このキャッチコピーしかり、当時としては問題にならないはずがない。なお、「恋」の紙上での字体は「戀」、いわゆる旧字体で、これについては「いとし(糸し)いとし(糸し)という(言う)心」と分解して記憶する方途があったが、当時は「恋」と「戀」と、手書きの際はどちらが市民権を得ていたのだろうか。と、わたしは一体何を書いているのか。