本が人を襲うとき

午後から大学。
Kで、草森紳一『随筆 本が崩れる』(文春新書*1)を買う。
帯のコピーがいい。「すべての本好き、古本好き、積ん読派に恐怖と共感の嵐?」、これである。そして坪内祐三氏の言葉。三頁からはじまる「目次」がまた、しゃれている(香川京子が!)。目次の文字は、坂崎重盛氏。〈跋〉が、池内紀「やわらかい本」。本文は、「本が崩れる」「素手もグローブ」「喫煙夜話『この世に思残すこと無からしめむ』」の三部から成るのだが、書下ろしはない。
写真も多い。圧巻は、p.58-66に載せられた写真。ぐるりを取り囲む本の壁。本、また本、またまた本、……。
「本が崩れる」では、本の山が崩れて風呂場に閉じ込められたというエピソードが主に描かれている。風呂場に閉じ込められた著者は、やむを得ず頼まれた原稿を書いたり、積読になっていた本に手をつけたりする。本によってまさに「監禁」状態にある著者が、「読書人」の感覚を取り戻し、「さて本でも読むか」と「本の山」に腰を落ち着けるわけである。その姿が可笑しくも哀しい。
またこのテの書物にありがちな本の「収納法」ではなくて、「積み上げ方」とその避け方の技術の話になってしまっているのが、さらにおかしいのだ。

つまり、この世に息しているかぎり、私はこれからも「本」なるけったいな妖怪どもと闘っていかねばならぬのだろうな、ということでもある。「本」には、著者や関係者のおどろおどろしたエネルギーがみっしりと詰っている。ひとまず本の解決など考えぬ。わが漫画人生の続行である。(p.127)

そして「本」には、いうまでもないが、所有者のエネルギーも込められている。「本とは所有者のたましいなのにちがいない」、というのは出久根達郎氏の言である。本棚や本の山がわれわれを圧倒するのは、そんな理由もあってのことなのではないか。
また、斎藤真一の画文集『吉原炎上』(文春文庫)を読んだ。
五社英雄がこれを映画化しており(むしろ映画のほうが有名かもしれぬ)、かつて金曜ロードショーでかかったときに録画をして鑑賞した(オンタイムで観なくてよかった*2と思ったものである)。その後、ヴィデオがどこかへ行ってしまったので、フライデーシネマナイト(MBS)で放映されたときにはオンタイムで観た。これはつい二年ほど前のことである。映画のタイトルロールが流れるオープニングに、斎藤真一の画が挿入されている。
そして今月は、衛星劇場でやっている。「西岡善信・自選作品特集」の一本としてである。『雁の寺』(1962)や『薄化粧』(1985)もラインナップに入っていたと思う。番組表を見るのがメンドウなので、いちいち確かめることはしないが。
さて斎藤真一である。この『吉原炎上』は、斎藤の母・益(ます)の聞書きによって書き始められた作品であるらしい。彼女の養母「久野おばさん」=「紫」*3が娘に語ったことどもを、間接的に聞き出すことによって書かれたのだという。もっとも、久野があえて語らなかった「空白の部分」もある。その「空白」を埋めるため、「吉原細見記」や当時の記録に拠ってはいるようだ。

*1:今月からの文春新書は、プロフィールがカバー見返しに移動している。好評既刊紹介ページのデザインも若干変っている。

*2:作品じたいはむしろ好きなのだが…。

*3:映画では、名取裕子が彼女を演じている。