四本目の「地帯」と豊田四郎

今日はよく寝た。本も読めた。
セクシー地帯 [DVD]
石井輝男『セクシー地帯(ライン)』(1961,新東宝)を観た。「地帯(ライン)シリーズ」、これでようやく四本目である。残すは『火線地帯』のみ。
吉田輝雄(吉岡博司)が猥雑な銀座の街なかを彷徨するシークェンスは、さながら『野良犬』の三船敏郎(村上)のようだ。背後からのショットと主観ショットを切り替えながら、街のディテイルまで描き出す手法は、『白線秘密地帯』(1958)や『黄線地帯』(1960)にもみられた様な気がする。スクリーンで観ると、たいへんな迫力があるに違いない。
ところで私が、「地帯シリーズ」で最も気になる俳優は、天知茂でも、三原葉子でも、ましてや細川俊夫でもなく、実は鳴門洋二なのである。『黒線地帯』(1960)ではサブ役として、また『黄線地帯』(1960)ではパイラーの政として、つまり端役で登場するのだけれど、これが妙に存在感があるのだ。ちなみに言うと、主演作に、未見だが西村元男の『底抜け三平 危険大歓迎』(1961)というのがある。その後、確かテレビ界へ移ったのだが、石井輝男『地獄』(1999)の「翁鬼」として復活を遂げた(最初に観たときは全く分らなかった)。
ちなみに、この『セクシー地帯』のタイトルバックや劇中に流れる平岡精二のジャズも評価が高いようである。ファンが観たら、その格好良さに「しびれる」かも知れない。
全く関係はないが、劇中で気になったセリフを書きとめておく。

吉田「君は僕が怖くないのか」
三原「ううん、ちっとも」
吉田「心臓だなあ」
三原「近頃は肝臓っていうのよ」

俗語にみる価値逓減である。「銀ブラ」を「プラチナ」と言い換えるのと同じようなものか。
日本俗語大辞典
「肝臓」は、さすがに米川明彦編『日本俗語大辞典』(東京堂出版)にも載っていない。本当に使われていた言葉なのだろうか。「心臓」(項「心臓が強い」の引用部)ならある。

『新語の考察』序編・一(1944年)〈加茂正一〉「『心臓がつよい』を、単に『心臓』だけで云ひ表はして来て、そこから、『心臓娘』、『トーチカ心臓』などの新語が産まれた。『あの妓シンゾウよ!』といふのを聞いて、『新造』のことだと思つた人もあつた」(p.297)

それからこの作品には、「トランジスター・ガール」という言葉も出てくるが、これは「トランジスター・グラマー」とは全く別の意味で使われている。
豊田四郎千曲川絶唱』(1967,東京映画)も観た。松山善三のオリジナル脚本による。
北大路欣也(五所川肇)は大型トラックの運転手。相棒役に田中邦衛(服部勇次郎)。
冒頭に、「商売女」たちがちらと出てくる。北大路も田中も、そんな玄人女性の相手をすることに手馴れているふうである。この女性たちが、後に登場する「別嬪さん」星由里子(田中いうところの「普通の女」)と対置せられることによって、いわゆる「純愛路線」の匂いが芬々としはじめるのだけれども、それでもなおウンザリせずに観つづけられるのは、田中の妹・いしだあゆみ(美子)のエキセントリックな芝居だとか、『仁義なき戦い』や『八甲田山』でも健在な北大路のギラギラした人を射るような目つきだとか、それから妙に生活感をかんじさせるトラックの運転席だとか、そういう細々とした道具立てが不安を増幅させるからだ。
その「不安」は、トラックが夜道を走り抜けるタイトルバックからすでに芽生え始めているのだが、上述の如く、小道具や随所に張られた伏線が、否が応でも不安を煽る。そして遂に、「最近、歯茎から血が出るんだ」という北大路のセリフがそれを決定的なものにするのである。彼はふとしたきっかけから、自分が白血病に侵されていることを知ってしまうのだが、ここで、この映画のテーマ(そういうものがこの作品にもしあるとすれば、だが)がよく分らなくなってしまう。
ぜんたい、これは純愛モノか、それとも社会派の反核ドラマなのか。私のような鑑賞者は戸惑い、ここで一旦、立止まらざるを得ない。
本作品の公開当時は、確かに「第五福竜丸事件」*1の記憶が世間で共有されていたのかも知れず、「ビキニ環礁のあの事件」が原因だ、という無茶な設定がいかにもそれらしく響いたことであろう。それで私は勘違いしてしまっていた。すなわち、「これは社会派の名をかりた純愛映画なのか」と。
しかし、それが誤りであること*2に間もなく気づかされた。この映画は安易な社会派ドラマに流れていないし、かといって湿っぽい恋愛ドラマに仕上がっているわけでもない。
しかもこの作品には、嫉妬するいしだあゆみが○○してしまうシーンとか、北大路がトラックで列車を追いかけるシーンとか、作品の意図をよく分らなくする展開が用意されているのであった。結果的には、そうした「ごった煮」映画として作り上げることによって、この作品が一面的な見方から解放されたようにも思う。
それから、演出の妙もある。駅で北大路が星と別れるシーンや、血痰を吐き捨てるシーンに大仰な音楽が被さって、ああこれは選曲に失敗しているなと思いかけた途端に、何事もなかったかの様に、次のシークェンスへと素早く移行するのである。期待外れには終らない。さすがは豊田四郎、安手の「純愛モノ」とは一線を劃している。
さて、医者・岩倉秀に扮するは平幹二朗。看護婦・浮田奈美に先述の星由里子。星の父が宮口精二なのだが、まあそれはいい。平と北大路には、はじめ埋めがたい距離があって(平の目的意識はまさに平自身によって語られる)、その仲介者となるのが星である。しかし、星と、北大路の住まう世界もまた同じように乖離していて、最初のうちは会話がちぐはぐなのである。堤防を歩きながら、星が北大路を説得するシーンを見るがよい。見事なまでに会話がかみ合っていないではないか*3
しかし、そんな「距離」を一挙に埋める場所がやはり用意されていて、それこそが千曲川のほとりなのである。よく出来た映画である(皮肉ではなく)。
ところで星は、北大路の「母」であったのかもしれないし、また「恋人」であったのかもしれないし、「白い杖」であったのかも知れない。しかしそれ以上に、実は mousa なのではなかったか。北大路は、観ているこちらのほうがちょっと恥ずかしくなる詩を作ってしまうのだが、それが決して作品中で「浮いて」いないのは、北大路が自発的に作った詩というよりも、むしろ星に導かれることによって成った詩だからではないだろうか。

*1:ビキニ環礁」「久保寺さん(実際は久保山愛吉)」「ヒロシマ」などという現実とリンクする具体事項が、作品の随所にちりばめられている。

*2:北大路のあまりにも現実的な選択(それは映画で確認して頂きたい)によって知られる。

*3:最後の最後になって、星は北大路を「五所川さん」ではなくて、初めて「肇さん」と呼ぶ。それがわざとらしく響かないのは、この作品がそれなりの強度をもっているからに違いない。つまり、展開に無理がないのである。