トニー谷の『家庭の事情』

トニー谷

この一週間強のできごと。帰阪。演習発表(とは呼べないシロモノ)ふたつ。熱を出して倒れる。寝込む。学会へは行かず(行けず)。購書。読書。
体力および食欲が回復しつつあったころ、「家庭の事情」シリーズ四本を観た。小田基義『家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻』(1954,宝塚映画)、小田基義『續家庭の事情 さいざんすの巻』(1954,宝塚映画)、小田基義『家庭の事情 おこんばんわの巻』(1954,宝塚映画)、小田基義『家庭の事情 ネチョリンコンの巻』(1954,宝塚映画)の四本である。各篇とも四十分ほどの小品。原案はいずれも三木鮎郎。トニー谷主演。
「家庭の事情」「馬ッ鹿じゃなかろ(う)か」「さいざんす」「おこんばんは」「ネチョリンコン」というのは、トニーのギャグで、いわゆる「トニイングリッシュ」である。劇中で、イヤというほど何度も何度も反復される。他にも、「ジャスト・あ・ちょっと待ってモーメント・プリーズ」「聞いてちょうだいはべれけれ」「アイ・ブラ・ユー」「だいじょうビ」なんてのがある。
池内紀『地球の上に朝が来る 懐かしの演芸館』(ちくま文庫)に、「トニー谷は一人の風変わりな芸人というよりも、一つの言語的事件であった」(p.58)とあるように、トニー谷の真骨頂は、確かにこの造語、「トニイングリッシュ」にあった。但しそれは、逆にいうと、それだけしか持ち味がなかったということでもある。つまり、ふとしたキッカケですべてが崩壊しかねない危険性も孕んでいた。
それは、色川武大が『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)に、次のように記していることからも分る。

トニー造語の数が多いのは、造語を量産していかないと芸がもたないからでもある。そうしてヤケッぱちの突進のように、その道を突き進んだ。(p.265)

しかも、これらのトニイングリッシュが聴衆の反撥をうけながらも熱狂的に容けいれられていったのは、「トニー谷」という二世を想起させる藝名であったこと、それから、「占領下」〜「独立回復」直後の日本で連発されていたからだという時代背景も考慮する必要があろう(小林信彦氏は〈ジャズ・コン〉ブーム抜きには考えられないと書いているが)。「嫌われ者」でありながら同時に「人気者」であった、という強烈な撞著をもったトニー谷のような存在は、私のような「戦争を知らない子供たちの子供たち」にはなかなか想像することが出来ないが、そうとうな異端児であったろうことくらいは想像がつく。
それにしても、「家庭の事情」というクリシェの、なんと融通無礙なことか。汎用性ある一種の超論理なのである*1。しかしその一方で、恐るべき言葉でもある。「それは家庭の事情だ」といえば、そこで対話を強制的に終了させ、相手方の問い質そうとする気を殺いでしまう。トニーのシニカルな眼は、たぶんその曖昧さ、馬鹿らしさを直観的に見抜いていたに相違ない。小林信彦氏も、「これ(「家庭の事情」という言葉―引用者)は、少なくとも、一つの批評であろう」(『日本の喜劇人』新潮文庫,p.91)と書いている。
「馬ッ鹿じゃなかろうかの巻」は、いわゆるスラップスティック・コメディで、「さいざんすの巻」もそういうものかとおもって観たのだが、ところがどっこい、この続篇では批評性がやや強まっている。というのは、自己言及的な要素を多分にふくんでおり、劇中のトニーが観客にしばしば語りかけてくるスタイルをもっているからだ。「自己言及的な」というのはすなわち、当時「嫌われ者」を自らもって任じていたトニーがそれを逆手にとり、「嫌われ者」という視点からビルのなかを、すなわち「世間」を冷徹な眼で見据えるというわけだ。ここでのトニーは、主役というよりも、むしろコロス的存在である(もちろんこれは悲劇ではないが)。そもそもトニーにとっては、キートンのような体を張った藝など、どだい無理な注文なのである。小林氏が、「首から下の動きはきわめてモロい」(前掲,p.93)と書いているように、映像作品だと、その貧弱ぶりが痛々しいほど露呈してしまう*2。だから、そういう傍観者的なふるまいをするのが、どちらかといえば自然なのである。
ところが「おこんばんわの巻」で、ふたたび趣向がスラップスティック・コメディに戻る*3。しかも、第一作よりもその傾向がつよい。圧巻は、貧弱な体を「活かして」有木山太*4と喧嘩するシーン。スラップスティックとしていちばん出来が良いのは、この「おこんばんわの巻」ではないかと思う。
最後の「ネチョリンコンの巻」は、ふたたび諷刺のきいた作品として仕上がっている。トニー扮する富豪の外国人「ネチョリンコン」の演説(これが非常にバカバカしくて笑える)は、どう考えてもチャップリンの『独裁者』を摸したもの(即興性を重んじている意味でも)としか思えないし、ヒロイン冬子*5に誤解をうけたまま(命の恩人たるネチョリンコンが、まさトニー自身にほかならないことを彼女はしらない)フラれた後の台詞――「おい、ネチョリンコン。お前は世界一の幸せもんだぞ。銅像にはなるし、冬子さんには慕われるし。慕われてるお前は俺じゃないか。のこ……残された俺は一体誰なんだよ俺は。オパポロポンじゃねえか」――は、「家庭人」としてのトニーと、「藝人」としてのトニーとの逕庭を物語るものであったのかもしれない。敗戦後の日本をがむしゃらに走り続けたトニーが、ふと立ち止まったとき、そこに抜け殻のように横たわっている「藝人」としての自分の姿を見出したのではなかったか、と深読みしたくなってしまう。
じじつ、家庭人としてのトニーは、よき父親であったようだ。『日録20世紀 1953(昭和28年)』(講談社)の「人物クローズアップ」(トニー谷)には、次のようにある。

昭和三〇年七月十五日、長男の正美ちゃん(当時・六歳)が誘拐されるという事件が起きた。六日後の二一日に犯人が逮捕され、無事に事件は解決したが、犯人は動機のひとつとして「トニー谷の、社会風刺というより人を小バカにした放送に反感を持った」と語っている。しかし、家庭人としてのトニー谷は、夫人の大谷たか子さんによると、「子煩悩で、整理・整頓にうるさく、きれい好きなよきパパ」だったという。事件以降、トニー谷は芸能界から遠ざかっていった。復活したのは、三七年一一月から始まった日本テレビの「アベック歌合戦」。「あなたのお名前なんてーの」とやる司会ぶりが、一種の新鮮味を感じさせたが、かつてのあの強烈な“毒”は消えていた。(p.20)

誘拐事件後トニーの「毒気」が抜けた、というのはどの論者も(小林氏も池内氏も*6)共通して言及していることではあるが、色川武大の意見は、すこし違っている。最後にそれを引いておく。

愛児の誘拐事件(幸い無事で戻った)のころからおとなしくなった、といわれるが、それよりも乱世が過ぎ、トニーも年齢(とし)を重ねて、生活者であることを隠せなくなったからだ。誘拐事件は、彼もまた普通の父親だということを現してしまった。(前掲,p.265)

*1:「馬ッ鹿じゃなかろうかの巻」と「さいざんすの巻」の冒頭には、「家庭の事情」というクリシェの「用例集」がある。

*2:それは、『からっ風野郎』で、三島由紀夫の体躯を目にしたときの痛々しさと似ている。しかしトニーは、それさえもまた逆手にとっているわけなのだが。このことは次に述べる。

*3:ビキニ環礁」「水爆実験」など、当時そうとうシニカルに響いたにちがいない〈現代用語〉も登場することはするのだが、それはディテイルに眼を向ければのハナシである。

*4:「馬ッ鹿じゃなかろうかの巻」「さいざんすの巻」では千葉信男(どういうわけだか未だに能勢梅童のイメージが抜けない)、「おこんばんわの巻」「ネチョリンコンの巻」では有木山太が、印象にのこるバイプレーヤーとして出演している。特に後者のふたつで確認したことだが、有木山太には憎まれ役がよく似合う。ところで「有木山太」という藝名は、いうまでもなく「アレキサンダー」のもじりである。戦時中はシベリアに抑留されていた、という話をどこかで見たか聞いたかした。「ミルク・ブラザーズ」の一員でもあった人で、のちに「有木三太」と改名した。

*5:「家庭の事情」シリーズには順に、春子・夏子・秋子・冬子というヒロインが登場する。

*6:村松友視トニー谷、ざんす』は読んでいないので知らない。