小林一三の逸話

用事いろいろ。某先生の貸して下さったCDを聴いて楽しむ。
百均で拾った清水雅『小林一三翁に教えられるもの』(梅田書房)をパラパラとやっていたら、その口絵に、小林翁とトニー谷が並んで写っている写真があった。昭和三十一年の楽屋スナップだそうだから、トニー谷の長男誘拐事件後のものだ。
中身も、色々の逸話が満載で面白い。

阪急宝塚線、能勢口駅から、能勢電鉄が走っている。このホームに立たれた小林さんは、折から入ってきた上り下りの電車が、きっちり停止線に並んで止ったのを見て、これはいかんといい出された。
能勢電鉄から降りて来た客が、宝塚行きの電車が止っているかどうかが見えない。これは停止線を少しずらせて、電勢(ママ)電鉄のホームから、二つの電車が見えるようにすべきだ、と直ちに変更を命ぜられたという話を聞いた。東京の東横電車に関係をもたれたとき、最初に改良せられたのは、ホームを高くせられたことで、電車を待っている間に、階段を昇るのはよいが、電車がついた時には、平面で電車に入れるようにしなければならないというのである。(「電車の窓」p.18)

今でも一番心に残っているのは、ライン地方の旅行を続けている間に、(小林一三翁が―引用者)どこかの都市の骨とう店で、棚の奥の方から埃まみれになった、ひげ徳利を引張り出されて、即座にいい値で買われた時である。このひげ徳利は、よほどお気に召したものと見えて、その後スイスを経て、あちこち旅行をしている間、いつも自分で持ち歩かれて、決して随行の私たちに持たせなかったのであるから、おそらく余程の掘出しもので、もし割られたら大変と思われたに違いない。(「ひげ徳利のこと」pp.168-69)

また「私の行き方」p.124に、「先般、再刊された「曽根崎艶話」など、その当時発禁になった理由が、僅かに一行であっていま読んで見ると、全く何のための発禁か、お話にならないなどというような内輪話をしていると、長くなってどうにもならない」とあった。
この本のことは、城市郎『発禁本』(福武文庫)にも出て来る。『発禁本』によると、『曽根崎艶話』は小林一三が「急山人」という名義で出版したもので、「『襟替』『イ菱大盡』『梅奴』という三つの短編からなる」という。だが城氏は、「男側の密通描写は黙認されていて、発禁規準に該当しなかったわけですから、今読んでもどこがいけなかったのか、理由は判然としません」(p.164)と書いている。清水氏いうところの「僅かに一行」がどのような描写のものであったのか気になるところだ。