ディスカバー・ジャパン

森彰英『「ディスカバー・ジャパン」の時代――新しい旅を創造した、史上最大のキャンペーン』(交通新聞社)を読んだ。同書に、

「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンは、足掛け七年間続いて、昭和五十一年に終わった。終了宣言を出したわけではない。使命を終え、ひっそりと消えていった感じである。最後の三年間になると、初期の輝きは失われ、そのキャッチフレーズも忘れられかけていた。(p.121)

とあることから、一九七〇年代後半の横溝正史ブームと「ディスカバー・ジャパン」なる言葉とをことさらに結びつけようとすると、あるいは正鵠を失することになるのではないかとおもった。
たとえば樋口尚文『『砂の器』と『日本沈没』――70年代日本の超大作映画』(筑摩書房2004)には、「(松竹版―引用者)『八つ墓村』は日本の美しい田舎の風光とおっかない伝説を「ディスカバー・ジャパン」的な見せ方で売ろうとするものだった」(p.42)とあるし*1、野村典彦氏の「ディスカバージャパンと横溝正史ブーム」(一柳廣孝編著『オカルトの帝国――1970年代の日本を読む』青弓社2006所収)という論文もある。同論文で野村氏は、「ディスカバー・ジャパン」と1976年の映画『犬神家の一族』との関わりを証するものとして、角川春樹氏の当時の発言を引いている*2。だが、製作者サイドの戦略と消費者たちの思わくとが一致したかどうかという問題についてはべつに考える必要があるのではないか。もっとも、野村氏が言及するところの民俗学系書物出版ラッシュ、奇習・秘境ブーム等が、「ディスカバー・ジャパン」と連動しているということはいえそうだ(「『新日本紀行』の長寿に力を貸した」ということも)。
ところで、森前掲書も、それから野村前掲論文もそうなのだが、(キャンペーンの仕掛け人)藤岡和賀夫氏の言葉を引用しつつ、「ディスカバージャパンが『私をさがす』旅だったことは思い出しておきたい」(野村,pp.70-71)と述べていることはおもしろい。これはたとえば内田樹氏が、『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち』(講談社)で批判している「『自分探し』イデオロギー」「自分探しの旅」(pp.70-74)の源流と見做すべきものなのだろうか。つまり、「自分探し」が近年になってから「若い日本人の欲望にジャストフィット」するようになったというその素地は、既に当時から培われていたのか(もしくは曲解されていたのか)どうか、そのあたりが気になるのだ。
『「ディスカバー・ジャパン」の時代』を読んで、もっとも印象に残っているのは「アンノン族」でも「シンデレラ・エキスプレス」(これは私の記憶にも残っている。だって当時は名古屋に住んでいたんだし)でもなくて、「フルムーン」キャンペーンのことである。そのキャンペーンCM(私の生まれた年に、その最初のものが制作された)は、出演者が上原謙高峰三枝子という往年の大スターで評判となった(とくにその二本目は、入浴シーンということもあってたいへん話題になった)。

「ディスカバー・ジャパン」の時代―新しい旅を創造した、史上最大のキャンペーン
電通が出してきたカップルの候補を見て、国鉄側が全員一致で、これこそ熟年夫婦の理想像と声を上げたのが、高峰三枝子上原謙という顔合わせだった。ともに日本映画の黄金期に活躍した俳優で、熟年層なら誰でも知っている。だが、危惧する点はあった。二人ともスキャンダルを負って世間から忘れられつつある存在なのだ。(中略)また、スクリーンから遠ざかったものの、かつての大スターが揃ってCMに出演するだろうか、いや今の境遇だからこそ、喜んで出演するという見方もあった。だが、交渉してみると、二人ともあっさりOKであった。話をしてみると、映画界では上原が格上であったことがよく分かった。高峰は常に上原の意向を重んじて、あちらがよろしければ、わたくしの方は、と上原を立てた。撮影現場でも二人が親しく語り合うシーンはあまり見られなかった。(中略)
夫婦なら一緒に入浴する。どこか旅先の温泉で、しみじみと湯に浸りながら、ゆとりの気分を共有するシーンはどうか、と提案したのは、電通映画社(原文ママ)のディレクター鈴木八郎(故人)(原文ママ)であった。鈴木は高峰・上原に会って趣旨を伝えると、あっさり承諾してくれた。ロケは群馬県法師温泉で借り切って行われた。それぞれ付人を従えて旅館入りした二人は、別行動で、岩の裂け目にある露天風呂に浸かっても、ほとんど言葉を交さない。それでいてディレクターの指示には忠実に従い、恥じらいや照れを感じさせない。
撮影が終わると、上原はすべてお任せしますと、われ関せずの態度だったが、高峰はラッシュを見に来て、どのカットが使われるかを食い入るように見て確かめた。
二人の入浴シーンは話題になった。湯煙の向こうに肩越しに少し見える高峰のバストが年齢よりもずっと若い、このシーンは吹き替えではないかとさえ言われた。(pp.160-62)

この「高峰のバスト」については、次の様なこぼれ話が有る。「高峰の豊満な胸元が、一層話題を呼ぶことになる。シリコン入りか否かをめぐって、山東昭子議員(当時)に、高峰本人が『本物です』と断言する“シリコン騒動”まで起きた」(『日録20世紀 1981(昭和56年)』講談社,p.39)。

*1:然るに樋口氏は、むしろ『砂の器』(1974,映画内の設定では1971年)こそ「画にかいたような『ディスカバー・ジャパン』映画であ」り、「それもヒットの一因ではなかったか」(p.37)と述べてはいる。

*2:「当時電通藤岡和賀夫さんという有名な仕掛け人が、「ディスカバー・ジャパン」というコピーで全国津々浦々に駅ばりポスターのキャンペーンをやったんです。「日本再発見」と。それによって国内旅行ブームが起こり、また、日本の古くさいもの、伝統的なものを見直し、しかもそれがかえって新しいものに感じるという気分が広まった。それにのったわけ」(p.60)。ちなみに、藤岡氏の見事なプレゼンテーション能力については、森前掲書でも詳細にえがかれている。