岩本素白の随筆ふたたび

 鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』(平凡社)の「あとがき」に、「本はなによりもゆっくりと読まなければならない。読書のしずかな喜びも、発見も批評も、ゆっくりと読むことから生れてくる」(pp.227)とあるが、この本自体、ゆっくり読むのに適している。
 細切れではあるが、少しずつ読みすすめている。

月光に書を読む

月光に書を読む

 本書所収「月光に書を読む」「素白点描」「読書人柴田宵曲」の三部とも、何れも書き出しの巧さからつい引き込まれてしまう。たとえば、「読書人柴田宵曲」の冒頭、「いつの頃からか、読書の日々の効用とは、情報でも知識でもなく、しばしの平穏を与えてくれるところにあると考えるようになった。就寝前のひととき、手近な一冊をひらいて読みはじめる。漫然と字句を追ううちに、昼間のあわただしいざわめきは収まり、ときにほのかな明るみに包まれるような気がしてくる……。これこそ最上のひとときであろう。そうした読書にふさわしい本は、当然のことながら時とともに変わる。(略)そういうなかにあって、この十数年というもの、柴田宵曲の書架に占める位置は動かない」(p.103)。続きを読みたくなる、絶妙な書き出しである。
 「素白点描」は、まさに点描というべく、主として岩本素白の随筆の引用からなり、素白の人となりを簡潔に描いて余すところがない。「風景を見る眼とは、ひろい意味の教養にほかならない」(p.91)、「(素白は―引用者)理屈っぽいことや主義主張のあからさまな表白を好まない。大まかな全体よりも微妙な細部に心をひかれる。人目に立つ派手なことよりも、目立たない洗練を尊ぶ。そうした感性が、随筆はもとより、専門であった日本の古典文学の論考にまで行きわたっている」(p.97)等、しばしば挟まれる評が秀逸で、引用だけでは慊らない感じになり、どれ、ここはひとつ、素白の作品を読んでみようか、という気にさせる。
 そこに丁度よいタイミングで出た(刊行時期を合わせたのだろう)のが、岩本素白『素白随筆集』(平凡社ライブラリー)である。「解説」はやはり鶴ヶ谷氏が担当している*1
素白随筆集―山居俗情・素白集 (平凡社ライブラリー)

素白随筆集―山居俗情・素白集 (平凡社ライブラリー)

 この時期に読むとすれば、「寺町」(p.86〜)あたりからであろうか。「観相」(p.277〜)のとぼけた味わいも何とも言えないし、意外にも声高な調子の「がんぽんち」(p.320〜)であっても、捨てがたい魅力がある。
 其角の引用にはじまる「かやつり草」(p.11〜)を読んで、そういえば串田孫一は『博物誌』で「かやつりぐさ」について何か書いていたな、とか、昭和十三年に書かれた一文「まだしも京都や大阪は明治の首府にならなかつた丈に、言葉の混乱は免れて居る」(p.325)を読んで、小出楢重が大阪言葉の混乱を嘆いていたのは一体いつの話だっけ、とか、断片的な記憶が呼び覚まされ、本が本を呼ぶ。

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 十四日、中村登『いろはにほへと』(1960松竹)を観た。これは傑作。原作は橋本忍。前年のテレビドラマ版の評判が良かったために映画化されたのだそうで、キャストはほぼ同じ*2。この時代に映画版とドラマ版のキャストが同じというのは珍しいのではないか、よく知らないけど。
 佐田啓二の「成り上がりバイタリティ」とでもいうべきか、『天国と地獄』の山崎努のような、あるいは前期「黒シリーズ」の田宮二郎のような、六十年代高度成長期の蔭で成り上がろうとして散っていった男の半生がポジとなり、ネガは小市民的警察官(警視庁捜査二課)・伊藤雄之助(役名は松本)の活躍。彼は佐田の組織「投資経済会」を執拗なまでに追い続け、「モグラ」という渾名を与えられている。この男ふたりの、なかなか直接顔を合わせることのない対決が何ともわくわくさせる。
 「投資経済会」(「庶民のための唯一の投資銀行」を惹句とし、月三分の高額配当を謳う)というのは無限連鎖講ではないのだが、最初からそう巧くゆかないというのは目に見えている(「あの光クラブとはどうも違うようだ」という劇中の台詞が時代を感じさせる)。たとえば『教祖誕生』が、あるいは『陰花平原』が、某新興宗教組織の瓦解を予見したとみるならば、この作品は『天下一家の会』や『投資ジャーナル』の瓦解を予見したようにも見えて(佐田は決して当初から詐取を目的としてはいないのだが、結果的にはそうなった)肌に粟を生ずるのだが、しかしそのことよりも、「投資経済会」の幹部の顔ぶれがとにかく素晴らしすぎる。なにしろ佐田を筆頭に、宮口精二殿山泰司、三井弘次、織田政雄という面々なのだから。闇市香具師をやっていた三井の口上ぽい台詞まわしが楽しく、宮口や殿山がそれを聞いて本当に笑っているように見えて面白い。この面子で、いっそ「裏・社長シリーズ」でもやって欲しかったが、それも今ではかなわぬこと。
 この作品はしかし、主演の伊藤がカッコよく見えてしまうのである。猫背、つねに俯きかげんで歩き、しかも人と話すときは伏目がち、しじゅう自信なげな様子。そんなわけでどうしても小心者にしか見えない冴えない伊藤が、それでも実にカッコいいのである。特にラストで啖呵を切るところ。
 結局、佐田は詐欺容疑で逮捕され、伊藤は一躍ヒーローとなるのだが、それでも決して報われた気にはならない。実は別のところ、手の届かないところに悪人(本作品では、政治家に扮した柳永二郎とか佐々木孝丸とか)がいることに気づくからである。そのテーマはずっと先鋭化された形で『悪い奴ほどよく眠る』に体現される(公開年は同年)。橋本は、そういえば『悪い奴〜』の脚本にも参加していたのだった。
 また伊藤の母ミネが、メイキャップのため浦辺粂子であるということになかなか気づかず、声でようやくそれと知れたのだが、その信条が「いろはがるた」であるという着想はおもしろく、伊藤もその教訓を護符とし、「投資経済会」の息のかかった女(藤間紫!)や、宮口精二の懐柔策からすんでのところで逃れる、という展開は、分かりやすいが面白い。

*1:鶴ヶ谷氏は、「素白点描」で窪田空穂の哀切きわまる回想文を引用した後に、話題を転じ、素白の「粗朶の杖」に言及する(p.98)。この杖の話は、『素白随筆集』「解説」の冒頭に置かれ、いっそう印象深い存在となっている。

*2:ただし天野役が映画版では佐田啓二、テレビ版では芦田伸介