(かきかけ)

[rakuten:book:13143488:detail]
■p.184「波行はもとP音であったという新説を述べ…」
上田萬年以前のハ行両唇音説(大槻文彦)に言及。確か大島正健も?
■誤字?
p.179「竹与三郎」→「越」??
■「(白鳥庫吉が―引用者)東洋史というよりは、東洋諸国の歴史というのを、高等科で教えることになって、先生が支那周辺の民族の歴史のところを受け持たれた。那珂先生が東洋史なんてことを言われたのは、日清戦争以後です。明治二十七、八年のころです」(吉川幸次郎編『東洋学の創始者たち』講談社、p.23)という榎一雄の証言があったが、窪寺氏によれば、「通世による『東洋史』なる科目の提議が、日清開戦を控えた時期(明治二十七年四月〜六月頃かという―引用者注)に当たっている」(p.197)という(具体的な日時は判明しなかったという)。

「国語」という思想―近代日本の言語認識

「国語」という思想―近代日本の言語認識

井上哲次郎、中原貞七の記述に「東洋史」の萌芽を見て、那珂通世によって「東洋史」という教科が明らかに「西洋史」に対置するものとして創始せられた、という窪寺氏の論証過程は、イ・ヨンスク『「国語」という思想―近代日本の言語認識』(岩波書店)を想起させる。
イ氏も、「端的にいえば、『国語』の理念は、日清戦争(一八九四‐九五年/明治二七‐二八年)を頂点とする明治二十年代の精神状況を土壌にして生まれた」(p.86)と書いていたし、落合直文大槻文彦関根正直から上田萬年に至る「国語」の成立過程は、「東洋史」の確立とどこか似たところがある*1。もっとも、私が知りたいのは、理念としての確立がどうのこうのというこむつかしい話ではなくて*2、むしろ、しかるべき文献や用例によって示される、術語としての確立のほうである。(つづく
東洋文化、といえば津田左右吉『シナ思想と日本』(岩波新書)の「東洋文化とは何か」で、窪寺著にも津田は出て来る。その津田が「庫吉の指導の下に西洋歴史教科書を執筆」した(p.300)というのは、『西洋歴史』のことだろう。これは津田の全集に入っておらず、『白鳥庫吉全集』には議論がなされた末に入れられたようである(第九巻)。
(まだ書きかけ…)

*1:イ氏はその前章で、井上哲次郎白鳥庫吉の主張する「言文一致」の内容と、その支柱となる国体概念とを検証しているが、それは時代としては後のことになる。

*2:それは書き手のスタンスや視点にも与ろうし。