藤枝静男『田紳有楽』

 「東京グラフィティ」8月号の「ヴィレヴァン」特集で、店員たちがおすすめの本を紹介している。広島県佐藤学氏は、近代文学ベストワンとして藤枝静男『田紳有楽・空気頭』(講談社文芸文庫)を挙げていた。曰く、「すべては自分の中にあって、どこにも何もないという禅問答の境地のような答えを、軽妙でシュールな描写で突きつけてきたのがこの本でした。(略)僕にとって最大の禁書です」(p.21)。
 藤枝静男の主立った作品は、今のところ、講談社文芸文庫で読むことが出来る。というか、手軽な形だと文芸文庫でしか読むことが出来ない。
 小説・随筆集は、『悲しいだけ・欣求浄土』『田紳有楽・空気頭』『或る年の冬 或る年の夏』『藤枝静男随筆集』『志賀直哉天皇中野重治』『愛国者たち』の6冊が入っていて、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』に「一家団欒」が*1中村光夫選『私小説名作選(下)』*2に「私々小説」*3が、富岡幸一郎選『妻を失う―離別作品集』に「悲しいだけ」*4が、日本文藝家協会編『現代小説クロニクル1980〜1984』に「みな生きもの みな死にもの」が、『素描―埴谷雄高を語る』に「埴谷氏のこと」が収められている(漏れがあるかも知れない)。
 また、講談社文芸文庫編『個人全集月報集』(第二弾)には、「藤枝静男全集」(1976.7〜1977.5講談社刊)の月報の文章が、「永井龍男全集」とのカップリングで入っている。書き手は、藤枝の随筆にしばしば登場する本田秋五や平野謙のほか、阿部昭古山高麗雄大岡昇平、大庭みな子、杉浦明平など。
 さらに、蓮實重彦『「私小説」を読む』は、「藤枝静男論 分岐と彷徨」を収めている。

 藤枝静男を読むとは、匿名の他者の群が藤枝的「存在」と同じ水準で接している堅固で平坦な地表と、そこである特権的存在感を享受しうる畸形的な土地の起伏とを距てている空間で何が起こるのかをつきとめる作業から始めるべき言語空間の漂流でなければならない。ただ平らで堅くあることのみで人間の無数の足を支えている地形から、人を疲弊させ、その足をとり、言葉を奪って絶句状態に陥し入れる突出部または沈下点への歩みが、藤枝にとって何を意味しているのか、そうした疑念をその「作品」群の細部たちがかたちづくる意味作用の磁場に据えることから始めるべき文章体験であるように思う。(p.64)

 わたしは、藤枝作品としてはまず随筆集の『小感軽談』を単行本で読み、それからN氏のすいせんで、『悲しいだけ』『欣求浄土』『田紳有楽』『空気頭』の順で読み進めて行ったのだったが、『田紳有楽』を読み了えたとき、なにかとんでもない小説を読んだ気がした。「私小説」と言われて読んだから、餘計にそうだった。冒頭で異形の「滓見(かすみ)」を目撃する「私」*5はいつの間にか姿を消し、「志野筒形グイ呑み」、「朝鮮生まれの柿の蔕(抹茶茶碗)」、「丹波焼き」、と語り手がくるくると目まぐるしく変わってゆき、後半で冒頭の「私」に戻るのだが、なんと自分は「慈氏弥勒菩薩の化身」(!)=「磯碌億山」であると語り始め、そうして最後の大団円(?)へとなだれこんでゆく――。
 「解説―離れて、しかも強く即く」で、川西政明氏はこう書いている。

 慈氏弥勒菩薩の化身が、本物であるか偽物であるかは、もうどうでもいいことである。生物も死物も化身物もすべてが、グロテスクでユーモアでわれわれを有楽へと誘う存在であるのだから。柿の蔕も丹波も磯碌億山もすべて人間の属性を解かれている。この作品には、現実にはひとりの人間も登場しないのだ。サイケン・ラマだけは人間時代のことが語られるが、彼も大蛇に変身した偽院敷尊者なのである。現実にはひとりの人間も登場しないのに、この有楽の世界には、猥雑にして宗教的な永遠の現在の相が現出している。これこそ人間をきわめたところに出現する「観玄虗(かんげんきょ)」(「庭の生きものたち」)であろう。(p.283)

 「庭の生きものたち」の当該部は次の様である。

 大広間の広い床に掛けられた「観玄虗」の大軸を、私は懐しさと尊敬の眼で長いこと眺めていた。私ひとりにとっては、この書がむしろ訪問の目的になっていた。気負いも気取りも癖もなく、三つの大字が楷書で紙いっぱいに一筆一筆ゆっくりと真面目に、まったくの無私で書かれ、左上に「田翁」とだけ署名されている。(中略)
 私は、この言葉が韓非子の「解老第二十」というところに出ていると教えられて読んでみたことがあった。老子の「道の道とすべきは常の道に非るなり」という語を解釈する部分に出ている言葉で、本文には「観其玄虗」と「其」がはいっていた。其は道を指していた。つまり万有には固有の属性もなければ規制もない。何の存在規定もなく無条件に自由である。一定の在り方なんかない。要するに道というような不変の理は存在せぬということを飲み込むがいい、という意味の言葉であった。漢文の教師から教わったのと変わりはなかった。
 私には、ただこの三字の字づらから受ける懐しいような恐ろしいような印象が、つまりぼんやりしたものが心にまつわりついて離れないのである。玄虗という文字から、私の行くてに空の空といったふうな透徹した真空状態は思い浮ばず、反対に光もまた失われてしまった無限の暗黒が見えるのである。(「庭の生きものたち」『悲しいだけ・欣求浄土講談社文芸文庫1988:267-68)

 ついでながら。「観玄虗」の掛け軸のことは、「志賀直哉紀行」にも出て来る。

 ――私達は公園を抜けて、東大寺塔頭勧進所の上司海雲君を訪ねた。書院にはこれも古馴染の「観玄虗」の大きな横軸がかけてあり、その下に白羽二重の布を敷いて天平の鬼瓦が置いてあった。(※ここまで志賀直哉「早春の旅」からの引用)(中略)
 私ごとき若僧がそのころ仲間に入れてもらえるはずもなく、と云うよりは上司氏の名前すら聞かされなかったのであるから、今こうして氏につれられて当の広い書院に坐り、呑気にも当時以来かけっ放しという「観玄虗」の大幅をはじめて眼のあたりに見ると、私の胸には私なりに色々の空想がこみあげてくるのであった。幅の下に「天平の鬼瓦」はない。
東大寺の宝蔵にあります」
 氏が笑って、
「志賀先生は私が急に大切にして羽二重の敷物をしたと思われてそのように書かれたのですが、私はぞんざいな人間で、あれは博物館の方から羽二重にくるんで還してよこしたのを、そのまま下に敷いといただけです」
 いかにも上司氏らしいあっさりした云い方をした。
「この字は田翁白巌という坊さんの書いたものだそうです」
 これもあっさりしていった。(「志賀直哉紀行」『志賀直哉天皇中野重治講談社文芸文庫2011:134-35)

 『田紳有楽』は、筒井康隆『みだれ撃ち瀆書ノート』(集英社文庫1982)にも取り上げられている。筒井氏は、「生物と無生物の間に仔が生まれるなど、SFも及ばぬ荒唐無稽さである」(p.70)、「ここ(語り手が冒頭の「私」に戻ってその正体が明かされるところ―引用者)でひっくり返って笑ってしまう。なんともドタバタ、ナンセンス、いやもうシュールの極致と言おうかなんと言おうか、ハチャメチャなのである」(p.71)などと評し、「こんなメチャクチャをいけしゃあしゃあとして書ける老作家のふてぶてしき境涯に、早くぼくも立ちたいものだ」(p.72)――と結んでいる。

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

悲しいだけ・欣求浄土 (講談社文芸文庫)

悲しいだけ・欣求浄土 (講談社文芸文庫)

志賀直哉・天皇・中野重治 (講談社文芸文庫)

志賀直哉・天皇・中野重治 (講談社文芸文庫)

みだれ撃ち涜書ノート (集英社文庫 79-D)

みだれ撃ち涜書ノート (集英社文庫 79-D)

Tokyo graffti(トウキョウグラフィティ) 2015年 08 月号 [雑誌]

Tokyo graffti(トウキョウグラフィティ) 2015年 08 月号 [雑誌]

*1:『悲しいだけ・欣求浄土』にも収める。

*2:もとは集英社文庫

*3:愛国者たち』にも収める。

*4:『悲しいだけ・欣求浄土』にも収める。

*5:その「私」という一人称が出て来るのも、ようやく4ページめであって、異様である。