日本で言い慣わされている漢籍由来の故事成句は、漢籍における元々の表現とは異なった形で人口に膾炙している、ということがしばしばある。
例えば、『史記』巻九十二「淮陰侯傳」にみえる「敗軍之將不可以言勇」(敗軍の将は以て勇を言ふべからず)は、日本では専ら「敗軍の将(は)兵を語らず」として知られる。
これが有名になったのは、1978年11月の福田赳夫(1905-95)の発言の影響もあるかもしれない。福田は、かねて“総裁予備選で二位になった者は本選を辞退すべきだ”と主張していたが、予備選で大平正芳に敗れたため、その発言が自らの首を締めてしまうこととなる。そして福田は本選辞退に際して、会見で、
天の声にも変な声がたまにはあるな、とこう思いますね。ま、いいでしょう。今日は『敗軍の将、兵を語らず』で行きますから。へい、へい、へい。
と述べた。わたしは、もちろんこれをリアルタイムで見たわけではないが、「三角大福中」時代を扱ったテレビの特集番組などでよく流れるので、何度か目にしたことがある。もっとも当時は、「天の声にも変な声がある」の方が有名になったようだけれど。
また、その福田発言よりも前のことだが、神代辰巳『かぶりつき人生』(1968日活)*1には、「『敗軍の将、黙して語らず』――こない言いまっしゃろ」という台詞が出て来る。
いずれにせよこれらは、出典とされるものとは違う形で受容されてきたといえる。
「敗軍の将、兵を語らず」に似た例として、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」が挙げられる。先日、明野照葉『魔家族』(光文社文庫2017)を読んでいたら、主人公の西原早季がこの「諺」を反芻するので、妙に引っかかったことだった。
だが、その時早季の頭に浮かんだのは、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」という諺だった。言うまでもなく将は恭平で馬は梨子だ。(p.89)
(やっぱり将を射んと欲すれば……だ)
恭平と関係を持った後の早季の目標は、梨子と会うことになった。(p.106)
「将を射んと欲すれば……」は忘れてはならない諺だろうが、言うまでもなく早季の一番の目的は馬ではない。将である恭平だ。(p.109)
「妙に引っかかった」というのは、早季が二十五歳という設定だからで(2017年時点)、二十代半ばの女性にしてはやけに大人びているな、と感じたのである。
それからずっと遡るが、増村保造『最高殊勲夫人』(1959大映)にもこれに類する表現が出て来る。劇中でテレビプロデューサーに扮した夏木章が、杏子=若尾文子と結婚したいがために、まずは杏子の父・林太郎=宮口精二から攻め落としたというつもりで、
将を得ようと思い、いま馬を得たところです。
とうっかり口にしてしまう。間、髪を容れず宮口が、「わしゃ馬かね」と応じて、クスリとさせられる一齣だ。源氏鶏太の原作『最高殊勲夫人』*2で夏木が演じた人物にあたるのは「風間」だが、この風間は、「紳士の中の紳士」で通っているため、上述のような軽々しい台詞はそもそも口に出さない(つまりキャラクター設定が映画で改変されている)。
また、最近復刊された安達忠夫『素読のすすめ』(ちくま学芸文庫2017)*3は、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」なる小見出しのもと、
英和大辞典などで知られる市川三喜博士のばあい、昆虫学に凝って英語の文献を読みあさっているうちに、語学や言語学への興味がまし、結局その道の専門家になってしまいました、と述べておられた。これはむしろ、「将を追い求めんと欲すれば自ずから馬に習熟す」とでもいうべきか。
いずれにせよ、生涯を賭けて追い求めるに値するほどの大将(=対象)に出逢うことが、真剣な練磨のきっかけになり、持続性を生む。(p.40)
云々、と書いている。
「将を射んと欲すれば」などというと、いかにも漢籍由来らしくおもえるが、これは、杜甫の「前出塞」九首の其六の三〜四句に「射人先射馬/擒賊先擒王」(人を射ば先づ馬を射よ、賊を擒〈とりこ〉にせば先づ王を擒にせよ)と出るのが元の形である。
つまり、「将は」「欲すれば」という表現は出て来ない。
鈴木棠三・広田栄太郎編『故事ことわざ辞典』(東京堂出版1956*4)は、「人を射んとせば先ず馬を射よ」を本項目とし、「将を射んとせば馬を射よ」を空見出しとする。「将を射んと欲すれば」の形は掲出していない。
井波律子『中国名言集 一日一言』(岩波現代文庫2017)*5も、これを十月五日の條で取り上げているが、見出しは「人を射ば先ず馬を射よ」で、文中に、
俗諺「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」はこれにもとづく。(p.292)
とあり、「将を射んと…」を「俗諺」と見なしている。
なお、小林祥次郎『日本語のなかの中国故事―知っておきたい二百四十章』(東京堂出版2017)は「人を射んとせば先ず馬を射よ」と読み下しており、「今は『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』と言うほうが多い」(p.395)と述べ、太宰治の使用例(「将を射んと欲せば馬を射よ」)を紹介している。
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