『完落ち』ー業界用語のことなど

 赤石晋一郎『完落ち―警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋2021)は、“伝説の刑事”大峯泰廣氏の活躍を描いたノンフィクションである。他の本で読んだり(第三章「猥褻」)、テレビで見たり(第五章「信仰」、第八章「迷宮」)した挿話もあったものの、巻措くあたわざる面白さで、文字どおり「イッキ読み」したのだった。
 加えて、辞書好き、言葉好きとしては、所々にいわゆる隠語、業界用語が紹介されていることも興味深く感じた。その例を挙げておこう。

 “マグロ”というのは「仮睡盗(かすいとう)」のことを指す刑事独特の隠語だ。仮睡盗とは駅構内などで酔い潰れ寝ている人間から財布などを抜くコソ泥のことだ。市場に転がされている冷凍マグロのように動かない酔客を狙い犯行に及ぶので、刑事の間でマグロと呼ばれるようになったそうだ。(p.43)

 多分、上記から派生した意味のひとつなのだろうが、「マグロ」は犯罪者側からは、「睡眠薬等で客の身ぐるみをはがしてしまい,路上に放置することを『マグロにして放ってこい』という」(下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』現代人文社2016:104)といった用法でも使われるようだ。
 そのほか次のような業界用語、隠語が出て来る。

 事件化はしていないものの事件である可能性が高い案件を捜査することを、「掘り起こし事件」という。(p.59)

 そう云えば、スコップやシャベル(「掘り起こす」道具だ)を意味するscoop(スクープ)は、まさに「特ダネ」のことだった*1

 旅慣れているな、と大峯は感じた。「旅慣れる」とは、前科が多く刑務所暮らしが長いという意味だ。何をしでかしてもおかしくないタイプだろう。(p.107)

「一課長! 下川の様子がいつもと違います。この場所については慎重に話をするんです。私に『引き当たり』をさせてもらえませんか!?」
 引き当たりとは、つまり現場検証のことだ。
「そうか。やってみようじゃないか」
 寺尾*2は即答した。(pp.159-60)

 著者の赤石氏は、「引き当たり」をごく簡単に「現場検証」と言い換えているが、重要なのは、「被疑者などを現場へ連れて行く」という点である。ここでも、その下川(仮名)という証人を現場に同行させて重要な証拠を得るという展開になっている。
 前掲の下村著は、「引き当たり」について次のように説いている。

被疑者を犯行現場などに連行して,犯行時の裏付け捜査をすること。「明日,娑婆の空気を吸わしたる。引き当たりやぞ」と刑事は値打ちをつける。かつては,引き当たりに行った帰りに刑事は「コーヒーでも飲め」と缶コーヒーなどを被疑者におごっていたが,このような利益供与は少なくなっている。「サービス悪いでんな」とふてくされる被疑者もいる。(p.128)

 ちなみに、ニュースなどでよく耳にする「現場検証」という表現は、どうもメディア用語であるらしい。古野まほろ『警察用語の基礎知識―事件・組織・隠語がわかる!!』(幻冬舎新書2019)には、以下の如くある。

 ところがこの「現場検証」という言葉も、業界ではあまり聞きません。意図して使うことはまずないと思います。「容疑者」「重要参考人」同様、解りやすさその他の理由から一般化したメディア用語だと思います。
 ここで、捜査でいう検証――音節が少ないので、業界用語でもケンショウ――とは、確かにメディア用語でいう現場検証を含みますが、実はもっと幅広な概念です。すなわちケンショウとは、業界の堅い言葉でいうと、捜査員等が「①五感の作用により、②身体・物・場所の、③存在・性質・状態を認識する強制捜査」のことです。(p.54)

 なお、隠語に関しては、約3年前に「再び『けいずかい』、あるいは掏摸集団の隠語について」という記事を書いている。また、特に警察関係の隠語については、約8年半前の「読書メモ抄」で触れたことがある。
―――
 7月1日にフジテレビ系で放送された「奇跡体験!アンビリバボー」の「実録!戦慄の国内事件」で、『完落ち』第六章「自演」の内容が映像化され、大峯氏も出演していた。『完落ち』の紹介映像もあった。(8.2記ス)

*1:同じ語に由来するものでも、「スクープ」「スコップ」と形を違えることで日本語としての意味に差異が生じる例としては、「トラック」「トロッコ」、「スティック」「ステッキ」などがある。

*2:当時の捜査一課長・寺尾正大氏。寺尾氏が今年一月に亡くなったことは、赤石著「あとがき」の追記でも触れられている(p.235)。「大峯氏が最も敬意を持っていた上司だった」といい、本文中にも何度か登場する。4月24日付朝日新聞夕刊の「惜別」欄では、指揮官として徹底的に報告書を読み込む姿勢や、「被害者の気持ちを忘れずに捜査すれば、難事件も解決できる」を信条としたことなどが描かれている。

ツィマーマンのベートーヴェン

 昨年はベートーヴェン・イヤーであったが(生誕250年)、あいにくのコロナ禍で休日の外出もままならず、コンサートへは一度も行けなかった。岡田暁生氏は、「コンサートやライブが自粛されていた間、録音音楽ばかり聴いていたせいで逆に、生の音楽における背後のかすかなお客たちの気配やざわめきが、いかに音楽を生き生きと映えさせるための舞台背景であったか、改めて実感した」(『音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日』中公新書2020:28-29)と書いており、これにはまったく同感であった。
 しかし「録音音楽」というのは、自分の好きなときに好きなだけ、居ながらにして何べんもくり返し聴けるという利点があるわけで、夕まぐれの曖昧な時間帯に、あるいは深夜の夢寐のうちに、アルバン・ベルク四重奏団による『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第12番変ホ長調弦楽四重奏曲第16番ヘ長調』『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調』(いずれもワーナークラシックス)を筆頭に、ベートーヴェンの楽曲を何度もくり返し聴けたのは、非常によい経験になり、また刺戟にもなった。
 EテレやBSなどでベートーヴェンの演奏会がかかるかどうかも缺かさずチェックしており、過去の名演が放送されると聞けば、きっと録画して、帰宅後のひとときにゆっくり聴いていた。
 今年に入ってからもなおその熱はさめやらぬ状態で、先月下旬には、NHKBSプレミアムで、ツィマーマン(p)、バーンスタイン&ウィーン・フィルによる「伝説の名演を再び! ツィマーマン*1が弾くベートーベンのピアノ協奏曲」という3本立てのシリーズが放送されたので(3番、4番、5番。いずれも1989年のライヴ収録)、こちらも録画し、それぞれ少くとも3回は通して聴いている。
 ツィマーマンと云えば、わたしは高校生の頃に、カラヤン&ベルリン・フィルカップリング盤『シューマングリーグ ピアノ協奏曲』(グラモフォン)がすっかり気に入り、愛聴していたことがあった(1981~82年録音)。この盤のシューマンの協奏曲については、青山通(青野泰史)氏が、

 とにもかくにも、まずツィマーマンのピアノに感嘆してしまう演奏だ。(略)ここでツィマーマンが高速で弾く八分音符の一つひとつは、くっきりと粒立ち、クリアで明晰な音色で響いてくる。やや遅めのスピードで入り、テンションを高めていく流れはみごとだ。(略)第1楽章は、とくにこの3つの木管楽器*2がピアノとよくからむのだが、ベルリン・フィルの希代の名人たちからツィマーマンへのメロディの橋渡しは、シューマンのピアノ協奏曲史上でもベストの1枚に挙げられるだろう。(『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』新潮文庫2020:109-10)

と評している。
 しかし、ツィマーマンによる「ベートーヴェンの」協奏曲は、実をいうと、これまでに一度も聴いたことがなかった。
 わたしがベートーヴェンの音楽に衝撃を受けたのは交響曲第3番「英雄」で、これを初めて聴いたのは父の持っていたカセットテープ、ハンス・シュミット=イッセルシュテット&ウィーン・フィルの演奏だったから(確か1960年代の録音。その後よく聴くようになったのは、カラヤン&ベルリン・フィル、モントゥー&アムステルダム・コンセルトヘボウ管、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルだった)、これこそまさにベートーヴェン!という固定観念や思い込みがあったせいか、かつてはピアノ協奏曲も、とりわけ5番(よく聴いたのはバックハウス(p)、イッセルシュテット&ウィーン・フィル)が好きだった。
 しかし年齢とともに嗜好も変わるものなのだろうか、ツィマーマンの演奏をじっくり聴いていて、特に惹かれたのは「4番」なのだった。5番の方は、以前ほどにはよいと思えず、これはツィマーマンだからそう感じたのかと思って(まさか!)、カサドシュ(p)、ロスバウト&ロイヤル・コンセルトヘボウ管の5番などを聴いてみたけれど、やはり印象はあまり変らなかった*3
 ところで、新保祐司氏はこの第4番について、『ベートーヴェン 一曲一生』(藤原書店2020)で「ピアノ協奏曲全五曲の中で、一番好きな第4番」「ピアノ協奏曲に限らず、ベートーヴェンの全作品の中で、一番好きかも知れない」(p.158)と書いており、

 この第4番のベートーヴェンは、実に新鮮な精神である。第1楽章の、ピアノで開始される第1主題を聴いた瞬間に、もう心は高められる。何という冴えであろう。この第1主題は、第5交響曲のいわゆる「運命の動機」と近親関係にある。この新鮮さが、単なる新しさではなく、深みのある新鮮さである所以である。(p.158)

と記し、さらに、吉田秀和武満徹も第4番が好きだったということに触れている。
 新保氏はこれ以前にも、「恐るべき独創―ホルスト・シュタイン」という文章のなかで、次のように述べている。

 ベートーヴェンの全五曲の(ピアノ)協奏曲の中で、私はこの「第四番」が最も好きだが、この「第四番」は、逆説的にいえば、ベートーヴェンらしくないものなのである。
 当時、いわばベートーヴェンらしい名曲をまず聴いていた私は、この曲に至ってベートーヴェンらしさなどを突き抜けた、ベートーヴェンの本当の独創を感じとったのである。
 冒頭で、直ちにピアノが第一主題を呈示するところで、もう私は、あえていえば陶酔してしまう。何という独創であろう。大胆さであろう。こういう創造の力を見せられると、それだけで人間の精神の栄光を感じ、深く感動する。(『ハリネズミの耳―音楽随想』港の人2015:166)

 なお、新保氏の『ベートーヴェン 一曲一生』は、「みすず」二〇二一年一・二月合併号「読書アンケート特集」で富士川義之氏が紹介しており、「著者もまた『正気を保つために』はベートーヴェンを聴き、彼の音楽について書くことが不可欠であったのである」(p.54)等と書いていた。
 ちなみに、4月に入ってからは、ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」もよく聴いている。以前は専らケンプ(p)&メニューイン(v)だったが、最近は、フィルクシュニー*4(p)&ミルシテイン(v)の演奏で聴いている。

ベートーヴェン 一曲一生

ベートーヴェン 一曲一生

ハリネズミの耳 音楽随想

ハリネズミの耳 音楽随想

  • 作者:新保 祐司
  • 発売日: 2015/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:ツィメルマン」というカナ表記のほうに馴染みのある方もいらっしゃるかも…。

*2:クラリネット、フルート、オーボエ

*3:そもそも「皇帝」という俗称的な副題があることで、イメージが先行してしまうのかもしれない。

*4:「フィルクスニー」とも。

フレドリック・ブラウン「星ねずみ」

 ひところ、古書肆や新古書店に入るたびに、目を皿のようにして連城三紀彦フレドリック・ブラウンの本ばかり探していたということがあった。
 最近は一時期に較べると、いずれもかなり見つけにくくなってきたのを感じていたが、このところ、両者の復刊や新訳が相次いでいるのは嬉しいかぎりだ。
 まず連城作品は、未刊だった長篇『悲体』『虹のような黒』が幻戯書房から出たり、「連城三紀彦傑作集1、2」*1を皮切りに『運命の八分休符』『敗北への凱旋』といった入手のやや困難だった作品が創元推理文庫に入ったりした。
 またブラウン作品の方は、「フレドリック・ブラウンSF短編全集」全4巻が東京創元社から出たり(約1年半かけてこのほど完結した)、高山真由美訳『シカゴ・ブルース』や越前敏弥訳『真っ白な噓』がやはり創元推理文庫の「名作ミステリ新訳プロジェクト」シリーズ枠*2で刊行されたりしている。後者の小森収「解説」によれば、越前氏は『復讐の女神』の新訳も準備しているのだそうだ*3
 連城作品についてはまた機会があれば述べるとして、今回は、ブラウン作品のうちで私が最も多くの訳書で読んだ「星ねずみ」(Star Mouse)を紹介することとしたい。
 「星ねずみ」は初め、ロバート・ブロック*4編/星新一訳の『フレドリック・ブラウン傑作集』(サンリオSF文庫1982)で読んだ。その「訳者あとがき」に、星が、

「星ねずみ」では、博士のひとりごとが、すべてドイツ語なまりなのである。アメリカ映画にもドイツ語なまり、フランス語なまりのキャプションが、時たまある。日本で「SFマガジン」にのった時は、井上一夫氏がそれを九州的方言で訳し、えらく好評だった。ひとつの試みである。ここでは未熟さを強調して訳したが。(p.484)

と書いていたのが気になっていたところ、しばらく後、某古書肆の店頭二百均にフレドリック・ブラウン早川書房編集部編『わが手の宇宙』(ハヤカワ・SF・シリーズ1964)を見出したのだった。これには、都筑道夫訳「1999年」、福島正実訳「狂った星座」等と並んで、井上訳「星ねずみ」が収められているのだ。
 さてその「九州的方言」がどういうものかというと、

「ほほう! こいは! ミッキー・マウスじやあなかとな! ミッキーや、どうかい、来週、ひととびしてみんかね? おもしろかぞ」(p.91)

「ミッキー、おんしは、名前ばもらつたちねずみば、見たことあつとな? なになに? ないと? 見んさい、こいがウォルト・ディズニーミッキー・マウスばい。だが、おいは、おんしのほうがかわいいと思うちよつと」(p.92)

「ミッキーやこげんこつは、精度と幾何学的正確さが肝心ばい。すべて条件はそろつちよる――おいたちはただそいを組み合せるだけで――なあミッキー、どげんこつになると思う?
 引力圏からの脱出ばい、ミッキー。ただただ、引力圏から出るこつだけばい。たぶん、未知の条件もあるかもしれん。大気圏の上層、対流圏、成層圏とな、おいたちは、抵抗を計算でくるよう、そこん空気の量を正確に知つちよるつもりばい。けんど、完全に自信があつとな? ミッキー、そげんうまくはいかんばい。まだ、行つちみたこともないとこじやけんな。だが、機械もこまいけん、空気の流れも大した力はあたえんじやろう」(p.93)

等々、まさに、「九州的」方言というほかはない。これをはじめに読んだとき、『社長漫遊記(正続)』だったかでフランキー堺が演じた強烈なキャラクターを思い起したりして、ひどく可笑しかったものだった。
 ちなみに引用の三箇所目にあたる部分を、星がどう訳したのかというと、

「わたしは実現させたいのだ。小規模ではあるが、すべて入念に計算をばなされ、バランス的な条件はととのっておる。で、どうなるかじゃ、ミッキー。引力圏からの脱出である。すごいことなりだぞ。大気の上層部分の空気密度、空気抵抗。万全の計算したつもりではあるが、保証つきと断言はでけん。しかしながら、小型なるがゆえに、うまくいくじゃろう」(p.234)

となっている。それにしても、この主人公の博士というかオーベルビュルガー教授がもともと「ひとりごと」を好む性格で、鼠にさえもどんどん話し掛ける、といった設定のお蔭で、地の文で延々と状況説明をせずに済むわけで、結果的には、作品がテンポよく進むことになっている。あるいは、地球人の登場人物が極端に少ない作品なので、わざわざそのようにしたのかもしれない。
 さて上掲の箇所を、今度は中村保男訳『宇宙をぼくの手の上に』(創元推理文庫1969*5)所収「星ねずみ」で見てみよう。わたしが三番目に読んだ訳である。

「これは、一分の狂いもない絶対の精密さと、数学上の正確さが必要なものなのじゃよ、ミッキー。条件はなにもかも揃っとる。あとはそれらを組み合わせさえすればいいのじゃ。そうしたら、なにを実現させることができると思うかね、ミッキー。
 引力圏内から脱出するのに必要な速度じゃよ、ミッキー! それで脱出速度が倍加するのさ。たぶんな。大気圏の上層、対流圏、成層圏には、まだ未知の要素があるやもしれん。どの程度の空気抵抗があるかは正確にわかっとるつもりじゃが、完全に自信があるとは言えんのじゃ。そうなんじゃよ、ミッキー、自信はないのじゃ。実際にそこまで昇ったことはないのじゃからな。しかも、安全余剰(マージン)はきわめてわずかなので、気流というような些細な要素に影響されかねないのじゃ」(p.269)

 原文は見たことがないが、こうして並べてみると、――他の箇所からもそう感じたのだが――星訳はかなりの意訳であろうことが推察される。
 最近の安原和見訳『フレドリックSF短編全集』(東京創元社2019~2021)の第1巻(2019年刊)の表題作が「星ねずみ」で、わたしが四番目に読んだのがこちらである。当該箇所の訳文はというと――。

「これはな、たんに徹底的な精密しゃと数学的正確しゃの問題なんじゃよ、ミツキー。なんもかもとうにあるもんばっかりなんじゃ。しょれをただ組み合わしぇりゃ――しょれでどうなると思うね。
 脱出速度じゃよ、ミツキー。ほんのちょびっとじゃが、脱出速度を上まわるんじゃ。たぶんな。まだわかっちょらん要因があるんでな、ミツキー、大気圏のうえ、対流圏、成層圏まで行くとな。抵抗を計算しゅべき大気の量は正確にわかっちょるつもりじゃが、果たしてしょれは正確かっちゅうこっちゃ。いんや、ミツキー、正確じゃありえんのじゃ。なんしぇ行ったことがないんじゃからな。しかも許容幅がえれえ狭いんでな、ちょびっと気流があるだけで影響が出かねんのじゃよ」(p.62)

 安原訳が、他の訳者がみな「ミッキー」としているところを「ミツキー」と訳しているのは、実は意図的にそうしているのであって、牧眞司氏の「収録作品解題」に、

 この主人公はミッキー・マウスならぬ、ミツキー(Mitkey)である。ディズニーのミッキー(Mickey)は一九二八年に誕生し、ブラウンが「星ねずみ」を発表したころ(1942年―引用者)にはすでにすっかり人気者になっていた。読めばおわかりのとおり、この作品は読者がミッキーを知っていることを前提として書かれており、ぬかりなくディズニーへのリスペクトも盛りこまれている。(p.333)

とある。
☆☆☆
 今回はブラウンのSF作品を特に取り上げたが、ミステリ作家としてのブラウンについては、『短編ミステリの二百年3』(創元推理文庫2020)巻末の小森収氏の解説「第五章 四〇年代アメリカ作家の実力」の第2、3節(pp.631-48)がたいへん参考になる。

*1:特に「2」の方に収められた『落日の門』はこれが初めての文庫化となった。

*2:当初このシリーズは冊数を限っていたが、好評を博したのか、最近は無制限に出しているようだ。

*3:旧訳は、『シカゴ・ブルース』が青田勝訳、「短編集1」の『真っ白な噓』が中村保男訳、「短編集2」の『復讐の女神』が小西宏訳。ちなみに旧訳『真っ白な噓』は、原書にはあった “The Dangerous people” について、『世界短編傑作集5』(リニューアル版は『世界推理短編傑作集5』)が既に収めていたため(大久保康雄訳「危険な連中」)あえて省いたのだそうだが、越前氏による新訳版は「危ないやつら」とタイトルを改めて収めている。このほか、星新一訳として「ぶっそうなやつら」(『さあ、気ちがいになりなさい』所収)もある。

*4:『サイコ』の原作者として知られる。

*5:手許のは1982年3月5日19版。

『爾雅』の話

 國分功一郎『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院2017)には色々と触発されるところがあって、

 かつて中動態は、中動態と能動態とを対立させるパースペクティヴのなかにあった。中動態は能動態との対立のなかで自らの位置を確定していた。ところが、そのパースペクティヴは受動態の台頭とともに変化していく。もともとは中動態から派生したものに過ぎなかった受動態が中動態に取って代わった。
 いまわれわれは、そのような、能動態と受動態とを対立させるパースペクティヴのなかにいる。ならば、そのようなパースペクティヴのなかに中動態をうまく位置づけられないのは当然である。中動態はこの歴史的変化のなかで、かつて自らが有していた場所を失ったのだ。(pp.79-80)

という記述などにも蒙を啓かれたものだった。これを援用すれば、例えば『干祿字書』が定義する漢字字体の「俗・通・正」というタームも、「俗:通:正」の三項対立ではなく「俗:正」と「通:正」との二つの二項対立に切り離しておくのが本来で、それだとむしろ字体の処理がスムースに行くのでは、などと考えたりしていたのだが、こういった対概念に限らず、等価の関係であっても、二項で考える場合と三項で考える場合とではその意味するところが異なってくる場合もあるのだろうな、と感じられる例に逢著した。
 先日、小川環樹・西田太一郎・赤塚忠(きよし)編『新字源』(角川書店)で「肆」字を引いていたところ、十六番目の語釈に「いま。(類)今。」とあるのに偶々目がとまって、へえこの字にはこんな意味も有るのかと、そうおもったことがあった。
 その後、なぐさみに『爾雅(じが)郭注』*1をぱらぱら捲っていたとき、巻一「釋詁(しゃくこ) 下」本文に「治肆古故也」「肆故今也」とあるのにたまさか気づき(それまでに何度も披いていたというのに、今さら、である)、後者(前者については、いまは無視するが後述する)に対応する晋代の郭璞の注文(郭注)を見ると、「肆既爲故、又爲今。今亦爲故、故亦爲今」となっていたのだった。つまり「『肆』は『故』(の義)であり、そのうえさらに『今』(の義)でもある」、という訣である。続けて郭は、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」という。この後半部がよく判らなかったのだが(これについては後述)、「義相反而兼通」と言っているから、郭はこの「故」「今」を「ふるい」「いま」と解し、「肆」がその相反する両義を兼ね備えていると主張していることが判る。
 『新字源』の語釈はこの記述を基にしたのだろう、と考え、そのときはそのまま深くは調べずに了った。
 ここで一寸『爾雅』について説明しておく。『爾雅』は漢代に成立したとされる字義分類体の字書である。有名な許慎の『説文解字(せつもんかいじ)』に先んじて編まれたと考えられる。全体が十九篇に分れており、カテゴリ別に「釋詁」「釋親」「釋楽」「釋木」などの篇名が与えられている。例えば「釋親」は親族名称、「釋楽」は音楽に関することばを類聚している。『爾雅』がどういう風にことばを集めていったかということについては、頼惟勤(らいつとむ)が直截簡明に説いているので以下に引いておく。

 いろいろ経書を読んでみると、そこには訓詁が付いている。『詩』*2でいえば毛公(もうこう)が訓を付けている。『書』*3でいえば孔安国(こうあんこく)が訓を付けている。それをいわばカードにとって整理していくのと全く同じ方式を、『爾雅』は採っている。『爾雅』には、特に『詩』と『書』の語彙が多い。
 たとえば、『詩』を訓詁をたよりにして読んでいくと、「俶(しゅく)、始也」という例が出てくる。これは、「毛伝」である。ただし、『爾雅』の立場からすれば、これが『詩』のどこにあるのかは問題ではない。とにかく、「俶、始也」という訓詁があることがだいじなのである。また、『詩』の毛伝に「哉(さい)、始也」という例がある。この「哉」は〈カナ〉と訓読する助詞ではなくて、始という意味である。それから、「哉」が「始」である用法は『書』にも出てくる。毛公がいおうと、孔安国がいおうと、それは『爾雅』としてはかまわない。ともかくも「始也」の訓詁があることが大切なのだ。そこで、この「始也」の場合も含めて、いろいろな種類の訓詁をカードに拾う。そして、整理するときに、たくさんの「始也」が集まったとする。この場合の整理の仕方の一つに、「初、始也」「哉、始也」「首、始也」などをこのままずっと並べるやり方がある。ところが、『爾雅』ではこれを簡単にして、「初、哉、首、基、肇、祖、元、胎、俶、落、権輿(けんよ)、始也」という並べ方をしている。『爾雅』の撰者は、これだけの「始也」を拾い出した。このように一挙に連続させて書いてあるが、これは「初、始也」「哉、始也」「首、始也」「基、始也」「肇、始也」「祖、始也」「元、始也」「胎、始也」「俶、始也」「落、始也」「権輿(これだけが二音節)、始也」と同じことである。要するに、『詩』や『書』を読んでいくと、「始也」という訓の付いている字がいろいろ出てくる。それを総合すると、このようになる。だが、仮に「権輿」の字の意味がわからないときに、『爾雅』を使うとすると、これは不便である。暗唱でもしてしまわないと使えないことになる。(頼惟勤著/水谷誠編『中国古典を読むために―中国語学史講義』大修館書店1996:22-23)

 さて諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館書店)で「肆」を引いてみると、十四番目の語釈に「故にいま。又、いま。」とある。ここでは例の『爾雅』の「肆故今也」を「肆、故今也」と解した上で、上掲の郭注を引き、さらに「疏」(=注釈に対する注釈。この場合は郭注に対する宋代の邢ヘイ〔日+丙〕による注釈)の「以肆之一字爲故今、因上起下之語。」を引いていた。要はこれが、『爾雅』本文の記述を「肆=故今也」と解釈する根拠になっているらしい。
 この「疏」を、今度は『爾雅注疏』*4で確認してみよう。その巻二の「疏」に「毛傳云肆故今也即以肆之一字爲故今……」とあるから、邢ヘイは毛伝の記述をもとに、『爾雅』の記述を「肆、故今也」と解していることが知られる。清代の劉淇『助字辨略』(章錫琛校注)*5巻四の「肆」字の項を見ても、邢疏を引用しつつ、やはり「肆、故今也」と記している。劉はしかし、同じ巻四で「自」字を解するにあたって、『爾雅』の郭注ならびに邢疏を引用しているから、「肆」の項では、どうやら意図的に郭注を無視して邢疏のみ引用しているらしいことが判る。つまり、「肆既爲故、又爲今」という解釈は適当でない、と切り捨てているとおぼしい。
 同じく郭注を批判しているにも拘らず、これらとは異なる見方をするのが、宋代の王觀國である。王は『學林』巻二で、次のように述べている――中華書局刊の「學術筆記叢刊」版(1988年刊,2006年重印)から引く――。

觀國按:爾雅釋詁一篇,皆用一字爲訓,曰治,曰肆,曰古,此三字皆訓故也;曰肆,曰故,此二字皆訓今也。若從郭璞注,則是以故、今二字而訓肆也。此篇未有以二字爲訓者。(p.49)

 そして、『爾雅』の例えば「尼定曷遏止也」という記述は、「尼、定、曷、遏四字,訓止也」と解釈すべき旨を述べたうえで、

爾雅釋詁、釋言二篇,皆用一字爲訓。郭璞誤析其句,反以故、今二字而訓肆,字義雖亦通,而非爾雅句法也。(同前)

と説く。『爾雅』の「句法」から考えると郭注の解釈は成り立ちえない、といっている。ここでは、上で見たような郭注の「肆=故也∧今也」という解釈を批判しているわけだ。そしてこれは同時に、邢疏や後代の劉淇の解釈、すなわち「肆=故今也」とも異なる見解を打ち出していることにもなる。
 しかし、先にみたとおり「肆=故今也」は毛伝の解釈なのであり、頼が説くように、『爾雅』は毛伝等の訓詁を蒐めて作られていたのだった。
 だとすれば、王説はきわめて分が悪くなる。王は毛伝を恐らく見ていないし、毛伝を引く邢ヘイの疏も見ていないだろう*6
 とは云え『爾雅』釋詁篇の「句法」としては、解釈される語に二音節語がくることはあっても(頼の引用にあった「権輿」のように)、語釈の部分に二音節語がくることはなさそうである*7。ゆえに王のような解釈が出て来るのは無理もないことと考える。
 以上を要するに、『爾雅』の「肆故今也」について、郭注は「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解し、王は「肆、故=今也」(A、B=C也)と解していることになる。両者はたしかに大きな違いである。前者は必ずしもB=Cとは云えないのであるから。
 ここで、先ほどは無視した『爾雅』本文の「治肆古故也」(「肆故今也」の直前に出て来るもの)の解釈について考えてみよう。こちらは素直に、「治、肆、古=故也」と解釈できるだろう。しかし冒頭になぜ「治」が現れるのかよく判らない。郭注も「治未詳」といっている。ただ「治」と「肆」とは同韻字(去声寘韻字)であるから、「肆」を抜き出してくる際に、音注か何かをうっかり一緒に引用してしまった蓋然性がある。あるいは、単なる誤記、何らかの通假例といった可能性も残るが、今はとりあえず「治」は無視するとして、「肆、古=故也」と考えておく。この場合、「肆」「古」「故」は「ゆえに」の意味を表していると考えられる。「古=故也」だけだと、その意味を特定しがたいが(むしろ「ふるい」という義が直ちに想起される)、この両者の関係に、「肆」が割って入ってくることによって、この場合は、「古」も「故」も「ゆえに」であるだろうことが予想されるからだ。「古」が「故」の通假字として機能したことは、かつてしばしばあったらしい。白川静『字通』(平凡社)も、「金文の〔大盂鼎(だいうてい)〕に「古(ゆえ)に天、翼臨して子(いつくし)む」とあり、古を故の意に用いる」と説く。
 さて次に、問題の「肆故今也」である。こちらは王の説では、「A、B=C也」という形になるのだった。そうするとこれは、「A=C」「B=C」と分けて考えることができる。当然ながら、「A=B」ともいえるわけだが、「A、D=B也」(Dは「古」)というのが先に出て来た。こちらは「D」との関係において「A=B」を考えなければならず、「ゆえに」の意味だろうと解釈して置いた。一方「A=C」「B=C」は、「C」との関係において「A=B」を考える必要があり、しかも前出の「ゆえに」の義ではあり得ない(それならば前項にまとめてしまう筈だからだ)。このうち「B=C」すなわち「故=今」は、郭注の解釈はいまは措くとして、「これ」という代名詞としての用法が共通しているとも解釈できる。しかしそうなると、「肆」が浮いてしまう。「肆」に代名詞的な用法があるとは寡聞にして知らない。
 ここでもう一度、郭注の解釈に戻ってみる。郭は、「肆=故也∧今也」(A=B也∧A=C也)と解釈していたのだった。そのうえで、「此義相反而兼通者、事例在下而皆詩」と述べていたのであった。この後半の「事例在下而皆詩」が、初めに『爾雅注』を見た段階ではよく判らないと先に記したけれども、実はこのことについては邢疏が補足していた。「在下者謂在下文徂在存也注」と。すなわち『爾雅』の「徂在存也」に対する郭注を見よというわけだ。
 そこで、「徂在存也」を捜してみると、これは釋詁篇の後のほうに出て来る。たしかに、ここで郭注は「以徂爲存猶以亂爲治(略)以故爲今此皆訓詁義有反覆」と言っていて、「徂(死ぬ)」が相反する「存」の義を、「亂(みだれる)」が相反する「治」の義を(後者は「亂」と別字を混用したものかともいわれる)もつことを例にあげ、「故」「今」の例にも言及している。ただ、郭注のこれらの説明はやや不十分で、「故」「今」両字の関係については述べているとしても、肝心の「肆」が相反する両義を兼ね備えていることの例を挙げての説明になっているとは言いがたい。
 すっかり遠回りしたが、『爾雅』の「肆故今也」は毛伝をもとにしており、釋詁としては異例であるけれども、「肆、故今也」と解釈すべきで、邢疏がいうように「以肆之一字爲故今、因上起下之語」としておくのが、やはり無難なところなのかもしれない。
 『爾雅』に採録された語は、以上にみてきたように、引用元やそのコンテクストからは全く切り離されているので、ある字がどのような義を表しているかについては、他の字との関係から類推してゆくほかはない。
 こうして、「肆故今也」のどこをどう区切り、どこを等号で結びつけるかをあれこれ考えているときに、その解釈が巧く行ったり行かなかったりして、『中動態の世界』の前掲の一文を思い起していた――という訣なのだった。

中国古典を読むために―中国語学史講義

中国古典を読むために―中国語学史講義

  • 作者:頼 惟勤
  • 発売日: 1996/03/01
  • メディア: 単行本
琴棊書画 (東洋文庫)

琴棊書画 (東洋文庫)

  • 作者:青木正児
  • 発売日: 1990/08/05
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)

*1:手許のは台湾・新興書局刊(1971)で、「國学基本叢書」という影印本シリーズの一冊。

*2:いわゆる『詩経』のこと。

*3:いわゆる『書経』のこと。

*4:手許のは、台湾・世界書局刊(2012年五版)の「經學叢書」の一冊、『爾雅注疏及補正附經學史五種』所収の影印本。

*5:手許にあるのは中華書局版の第2版(2004年刊)。なお、書名の「助字」が「助辞」を指すのでないことは夙に青木正児が指摘していて、「彼(劉淇)のいわゆる『助字』は虚死字であって、本書は虚死字を採集して弁ずるを主旨としたのであった」(青木正児「虚字考」『琴棊書画』平凡社東洋文庫1990所収p.168,初出は1956.4「中国文学報」)と述べている。

*6:邢ヘイは王よりも200年近く前に生れているはずなので、参照できる環境にはあったとおもうが、王は『爾雅注』しか見ていないと考えられる。

*7:もっとも、『爾雅』釋訓篇などには、「朔北方也」「蠢不遜也」といった例も有る。

「器量」の話―『徳政令』餘話

 笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。
 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを述べ、これがなぜ「凡下(ぼんげ)百姓等」を意味するようになったかという問いを立て、その答えを追究している。
 まず笠原氏は考察の前提として、

 この頃(鎌倉末期―引用者)からまた、ある所領所職を、正当に知行しうる資格をもつ人間を「器量の人」とよび、その逆に資格のない人間を「非器」とよぶ法律用語が用いられはじめる(p.123)

といった条件を挙げたうえで、次のようにいう。

 ごくごく一般的にいって、中世の人間がある所領所職を、正当に(暴力や経済力だけではなく、社会的に認知された妥当性をもって)知行できる根拠は二つあると思われる。
 その一つは、前述の「器量」である。どんなに有勢の御家人であっても、それだけで庄園の本家職や領家職を知行するわけにはいかないし、逆に堂上の貴族が地頭職を手中にすることもできない。(略)
 第二は「相伝(そうでん)の由緒(ゆいしょ)」である。ある御家人領を、御家人Aが知行するのが正当か、御家人Bが知行するのが正当かは、その器量に差がないのだから、A、Bがその所領所職にもっている「相伝の由緒」の有無、もしくは強弱によって決定される。ここでいう相伝とは、血縁的な相続関係、いわゆる重代相伝に限られたものではない。一年前に他の御家人Cから買得した「買得相伝」であっても、もちろんかまわない。(pp.123-24)

 一方、中世的な秩序における「凡下百姓」は、「彼らなりの器量や相伝の世界があったかもしれない」とは云い條、「貴族や武士たちの人物の世界では、器量はもちろん、相伝とも無縁な人びとだった」(以上p.124)。しかし、やがて徳政の時代に至ると、経済力をつけた「凡下百姓」たちが相伝を獲得するようになった。それでも、厳然たる身分社会にあっては、どうしても「器量」までをも買うことはできない。これは逆説的に、「相伝の世界にふみ込み、事実の上でかかわりをもったこの時代、彼らは甲乙人に成り上ったのである」(p.125)と言い換えることが出来る。
 もっとも、笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)所収の「甲乙人」(pp.28-45)によると、

 このように「甲乙人」は「不特定者」から「百姓凡下」へと、その意味内容を変化させるが、ある時期を境にして、などということは勿論あり得ない。前者の「甲乙人」がはるか後代にも見出され、また庶民的ニュアンスの濃い用例が、古くから用いられていることも確かである。だから正確にいえば、語義の変化というよりも、両義の混在というべきかもしれない。(p.36)

といい、また、鎌倉的法秩序のもとでは、「『幕府の恩賞』という、これ以上ない『器量』と『相伝由緒』を獲得する時代が始」まり、「庄園や村落の内部でも、恐らく同じような事態が進行」することとなった(p.43)。そうして、「非器」の人という意味での「甲乙人」は姿を消してゆくことになる――、と解釈している。
 笠松氏はこれを、「臆測」だとか「想像」だとかいった謙辞で表現しているが、思考の過程が非常に明晰でかつ説得的である。私のようなまさに「凡下」の者は、「時代が下がって語の使用頻度が高まるにつれ、ニュートラルな語義をもつことばが卑語化したのでは」などとつい考えてしまい勝ちだが、なぜ「使用頻度が高ま」ったのかがまず問われなければならないわけである。
 さて、上記でキイ・ワードのように登場したのが、「器量」ということばであった。
 この「器量」で思い出したのが、『保元物語』のことである。正確には、藤田省三経由で知った『保元物語』、と云うべきか。
 竹内光浩・本堂明・武藤武美編『語る藤田省三―現代の古典をよむということ』(岩波現代文庫2017)所収「言語表現としての故事新編―転形期と表現について」の注に、次のようにある。

 藤田は「保元物語を読む」(一九七五年に平凡社セミナーとして全一〇回の講義をおこなった)で、従来、内容本位に「軍記物語」としてとらえられていた「保元物語」を、叙事詩的作品としてその形式と内容両方からその時代の言語を読み解き、転形期における言語表現の転換を講義した。その一端を藤田は「史劇の誕生」(『精神史的考察』平凡社、のちにみすず書房、一九九七年)として発表したが、藤田の保元物語論のごく一部にすぎない。他に保元物語の「器量」という言葉に焦点をあてたものとして藤田・鶴見俊輔多田道太郎の座談「現代の器量人とは何か」(『潮』一九七五年四月号、所収)、藤田・小田実の対談「器量こそが問われている」(『朝日ジャーナル』一九七四年一二月二〇日号、所収)がある。(p.285)

 上記の座談、対談ともに未見であるし、未完の「史劇の誕生」は平凡社ライブラリー版『精神史的考察』(2003年刊)で読んだが、そちらには「器量」への言及はなかった。それでも、『保元物語』に「器量」が現れるという上記の話が気になって、日下力訳注『保元物語』(角川ソフィア文庫2015)で読み直してみたことがある。
 手許のメモでは、それはたとえば、

器量をも選び、外戚(ぐわいせき)の安否(あんぷ)をも尋ねらるるに、これは当腹(たうぶく)の寵愛(ちようあい)といふばかりにて近衛院に位を押し取られ、…(上巻五、p.28)

文才(ぶんさい)、世に優れ、諸道に浅深(せんじん)を探る。朝家(てうか)の重宝(ちようほう)、摂籙(せつろく)の器量なり。(上巻六、p.28)

といった形で出て来る。ちなみに後者は左大臣藤原頼長に対する評言である。
 このような「器量」=「才能」ある人が現れる一方で、「凡下」(上巻四、p.23)や「凡夫境界(ぼんぶきやうがい)の者」(中巻四、p.97)といった表現も出ては来るが、これらは文脈上、阿羅漢や神仏に対する「普通の人間」=「凡下」「凡夫」なのであって、上で言及した「凡下百姓」の「凡下」とはニュアンスが異なる。これらの表現も、中世的な法秩序のなかでは、宗教的なニュアンスをまとわない身分的な意味を表すことばへと変容していったということが、あるいは想定されたりするのだろうか。
 ところで、藤田省三はこの「器量」という言葉に惹かれていたらしく、対象の時代はずっと下がるが、「我らが同時代人・徂徠―荻生徂徠『政談』を読む」(『語る藤田省三』所収)のなかでも「器量」について述べている。
 藤田は、徂徠が当時の朱子学者などとは違って、いつの時代にも「器量人」がいたと解釈していた(ただその「器量人」が上に立つかそうでないかという状況が異なるだけだ、という)ことに言及し、次のようにいう。

 では、器量人の「器」とは何か。徂徠はこういう時の比喩が巧みですから、「器」とは道具だから、特定のものに役に立つものだ、特徴のあるものだ。人間皆、得手不得手があるんだと、その得手不得手がない奴はぼんくらでどうにもならん奴だ、「器」とは、槍は尖っているから槍なんだ、槍がもし尖ってなかったら役に立たんわけだ。金槌が尖っていたら金槌にならん。だから槍というのは尖ってて金槌にならない、そういうもの。金槌は先が尖ってないから金槌として役に立つのであって、こういうものなんだと。人はある事柄で役に立つことを「器」と言う。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ、と。「器」とはそもそも癖のことを言ってるのだから、その証拠に人を見て一癖ありげと言う場合は褒め言葉ではないかと徂徠は言うわけですね。癖なき者には役立たずが多い、癖ある者には優れたる人多し、というふうに言うわけです。(略)器量を発見するのは、その癖をも含めて使ってみることであると。(p.191)

 「器量人」は「癖ある者」だ、というのは徂徠独特の解釈であるとしても、当時の一般的な意味において、「器量人」はリーダーたるべき「才能ある者」「才智ある者」を表していたらしい。藤田が述べたような徂徠の「器量人」講釈は、『政談』の巻三に出て来るが、たとえば巻一にも、「頭にすべき器量」「器量次第其内より頭を可申付」などといった形で「器量」が顔を出す。「器量」はこの時代にはもはや、生れ付いた地位やそれに伴う資格を表すものではなくなってしまっていた、ということなのであろうか。
 ちなみに『政談』は、その最良のテクストとしては平石直昭校注『政談 服部本』(平凡社東洋文庫2011)を挙げることが出来るだろう。特に岩波文庫版(辻達也校注、1987年刊)との校合が綿密で、同書が底本とした写本の誤脱を数多く訂している。また岩波文庫版が著者名を意図的に「荻生徂」とするに就ては、

それには十分な根拠があるが、辻氏も認めるように若い徂徠が「徂徠山人」と自署した史料がある(『墨美』二八四号、二三頁所掲の影印。この史料については岩橋遵成『徂徠研究』四三四頁に言及がある)。養子の荻生道済(金谷)や高弟服部南郭らの編集による徂徠の漢詩文集の題も『徂徠集』である。これらを考えると「徂徠」でもよいと思われる。(pp.415-16)

と述べる。
 「事項索引」が附いているのもありがたいことで、「器量」もちゃんと立項されていたのだった。

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

政談 (東洋文庫0811)

政談 (東洋文庫0811)

笠松宏至『徳政令』

 早島大祐『徳政令―なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書2018)の第一章に、次のようにある。

 ここで、日本の歴史学において、債務破棄を意味する徳政令がどのように理解されてきたかをまず紹介しておこう。
 最初にとりあげるのは、笠松宏至氏の研究である。
 笠松氏は、著書『徳政令』のなかで、戦前からの研究史をたどりつつ、この徳政令と呼ばれた奇妙な法令が、研究史上、どのように把握されてきたかを述べていた。
 具体的には近代法制史研究の父である中田薫以降の古典的研究において、鎌倉時代後半以降に頻発した徳政が、「しばしばわが経済界を擾乱し、かつ当時における法制の健全なる発達を阻碍」するものと否定的にとらえられてきたことを指摘した上で、なぜ債務破棄が徳政と呼ばれたのかと問いを立て直し、元の持ち主に返す=あるべきところに返すことが、古代~中世の政治において徳政とされた可能性を主張した。
 近代的観点からなされた、債務破棄としての徳政を愚かしいものと断じる態度を一転させ、中世固有の思想にあり方に迫った作業は、歴史認識を文字通り百八十度転換させた画期的なもので、現時点でも色あせない業績と言えるだろう。本書を笠松氏の著書と同じ書名にしたのも、一つには笠松氏へ敬意を表明するためでもある。(pp.27-28)

 また、呉座勇一『日本中世への招待』(朝日新書2020)の「〈付録〉さらに中世を知りたい人のためのブックガイド」にも笠松氏の『徳政令』が挙げられていて、紹介文の末尾で呉座氏は、

 とはいえ、(笠松氏の著書で―引用者)1冊に絞れと言われたら、やはり『徳政令』(岩波新書)だろう。長らく絶版状態だったが、読者からの熱い要望に応え、最近復刊された。借金帳消しをいう現代の常識を超える法令がなぜ生まれたか。この素朴な疑問から出発して、中世法の本質に迫る、日本中世史研究を代表する名著だ。(p.272)

と書いている。これらの記述に触発されたこともあり、「最近復刊された」というので*1、昨年の初めに大型書店をいくつか廻ってみたのだが、『徳政令』は店頭には見当らず、既に版元品切となってしまっていた。そして気がつけば、マーケットプレイスでは結構な値がつけられていた*2。地道に古書肆を廻ればもっと安いのがそのうち見つかるだろう、と気長に構えていたところが、昨年末に散歩がてら這入った近所の小さな「街の本屋さん」ですんなり入手できたのだから(しかもたったの100円で)、本屋巡りというのは面白い。
 その本屋は新刊販売が中心なのだが、店内の約十分の一のスペースを占める形で古書用の棚も設置されており、岩波新書の青版や黄版、カバーのない時代の岩波文庫や角川文庫などが1冊100円で出ている。そこに笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』初刷(1983年刊)を見出したのだった*3
 スリップがついたままだったので、おそらく新刊で売れ残って返本できずに倉庫かどこかで眠っていたものを店頭へ出してきたのだろう。
 とまれ、その『徳政令』を、この年始に味読していたのである。
 冒頭から、ひとつの偽文書の記述をもとに『吾妻鏡』の成立時期を「永仁五年以後」と断じたり(pp.13-14)、下久世の百姓らの陳状が原法令の「質券買得の地」を「質券売買の地」と書き替えた理由について解き明かしたりと(pp.22-24)、スリリングな考察が展開されるので、おぼえず引き込まれる。そして早々に、

 永仁徳政令で、Aという名の御家人が売った所領が、A御家人のもとへもどった。現代の所有の観念からすれば、何より大事なのはAという固有名詞である。しかし、このAをとり払ってみるとどうなるか。御家人の売ったものが御家人の手にもどった、ということになるだろう。もっと単純にいえば、それは「もとへもどる」という現象にすぎないのである。そして、もしこの、あるべきところへもどす(復古)政治こそが、徳政の本質であるとすれば、徳政と永仁五年の徳政令との間の違和感は、ほとんど消滅してしまうだろう。(p.54)

と結論らしきことを提示する。それから以下、「もとへもどる」ことが、中世社会において社会通念上決して不自然ではなかった、という事実が論証されてゆく。その過程で、笠松氏が重視するのが、いわゆる「中世語」の解釈である。
 同書では、たとえば「悔返す」(p.64)、「神物」「仏物」「法物」「僧物」「人物」(pp.65-76)、「本主」(pp.102-03)、「甲乙人」(pp.121-25)、「土風」(pp.131-32)、「時宜」(pp.134-35)といったことばが当時どのような思想のもとで使われていたか、という点に着目している。前掲の呉座著も、「笠松氏の研究の特徴としては、中世語への注目が挙げられる。現代では使われなくなった、あるいは現代とは意味が異なる中世の特異な語を蒐集し、その分析を通じて、中世社会独特の法慣習・価値観を浮き彫りにするのである」(p.270)と評する通りだ。
 笠松氏のその姿勢がよく表れているのが、以前「『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と」という記事で少しだけ触れたことのある、『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)だ(この本は呉座氏も紹介している)。ここに収められた「甲乙人」(pp.28-45)、「仏物・僧物・人物」(pp.86-119)を併せて読むと、『徳政令』に対する理解がさらに深まるし、『法と言葉の中世史』各論の問題意識も明確なものとなる。
 ちなみに、この「徳政」という現象が、鎌倉・室町期に限らず戦国期にもひろく見受けられることを教えてくれるのが、阿部浩一「戦国大名の徳政」(高橋典幸五味文彦編『中世史講義―院政期から戦国時代まで』ちくま新書2019、その第14講)である。阿部氏は、「為政者の法としての徳政令」が「中世社会の終焉とともに歴史の表舞台からは姿を消してい」った理由として、次のような説を提示している。

 一つは、徳政令が出されても公権力につながる蔵本たちには手厚い保護が与えられていたように、借銭・借米の破棄や土地取戻しを主内容としていた中世の徳政令そのものがきわめて限定的なところでしか有効性を発揮しえなくなっていたことがある。徳政免除や買地安堵にみられるように、債権債務関係や土地売買の安定化を求める社会的要請は確実に存在する。それ故に、戦国大名の徳政は「撫民」「善政」を幅広く含む内容のものとして民衆に訴えかける必要があった。(略)
 二つ目は、そうした「撫民」「善政」が本当に実現されるためには、災害や戦乱、代替りに発布される徳政令という限定的な法令ではなく、領国支配さらには社会全体の恒常的なシステムの中で構築されなければならなかった。(pp.244-45)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

中世史講義 (ちくま新書)

中世史講義 (ちくま新書)

  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 新書

*1:正確には「重版」だろう。どうも2016年のことらしい。

*2:その頃には、軽く1,500円を超えていた。

*3:ついでながら、このとき同時に入手したのが、同じ岩波新書黄版の鹿野政直『近代日本の民間学』であった。この本は、山本貴光吉川浩満『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社2021)で山本氏が「在野研究者や独立研究者というあり方に興味が」ある人にとって参考になる一冊として挙げていたので(p.116)、まさにタイムリーだった。

ふたたび『競輪上人行状記』

 過日、約8年ぶりで西村昭五郎『競輪上人行状記』(1963日活)を観た。前回は「日本映画専門チャンネル」の「ハイビジョンで甦る日の当らない名作」枠でかかっていたのを録画して鑑賞したのだが、はからずも主演を務めた小沢昭一を追悼するという形になってしまった。今回は、ちょうど西村昭五郎監督の誕生日に、そうとは知らずに観たのだった。のむみちさんの「名画座手帳2021」の1月18日條にメモをしておこうと思って披いたところ、西村の誕生日であることが示されていて驚いた*1、という次第なのだ。しかし、この間に西村は亡くなってしまったし(2017年歿)、主要登場人物を演じた加藤武も亡くなった(2015年歿)。
 8年前は鑑賞後に、

 おそるべき大傑作。原作は寺内大吉による。脚本は、大西信行今村昌平。いかにも今村らしいカラーに満ちた作品だ。とにかく、小沢昭一の鬼気迫る演技に注目。単に落魄の身となるのではなく、したたかさを持って「競輪上人」となり果ててゆくくだり。そして圧巻はラストの広長舌。
 春道(小沢)をその道に引きずりこんでゆく葬儀屋の色川=加藤武、競馬ぐるいの渡辺美佐子……。あくの強い役者が揃い、人間の慾、エゴ、ふてぶてしさ、汚らしさなどが有り体に描かれる。

などと書いたのだが、基本的にこの感想にかわりはない。「おそるべき大傑作」という言辞も、大袈裟ではなく、その通りだと考える。前回も思ったことだったが、ラストで小沢が広長舌をふるうモブ・シーンは、おそらくエキストラを殆ど使っていない。偶々そこに居合せたと思しい二、三人の男性が、カメラの存在に気づいた様子で笑みを見せているからだ。
 また前回、オープニング・クレジットとラストとで流れる黛敏郎の音楽について、「どことなく、ベルリオーズ幻想交響曲』の第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」をおもわせる」と書いたが、改めて聴きなおしてみると、テーマが完全に「ワルプルギスの夜の夢」(「魔女の夜宴の夢」とも)と一致しているので、むしろこれを編曲したもの、といえそうだ。
 それから、小沢がつまずいて地面に倒れる場面で、眼の前にちょうど犬の死骸があってヒエッとなる展開は、これまた大傑作の川島雄三幕末太陽傳』(1957日活)で(こちらはこれまでに少くとも5度は観た)、貸本屋金造(アバ金)=小沢が水の中から出て来ると猫の死骸を抱いているのに気づいてウワッとなるという、例のシーンのオマージュでもあるだろう。ちなみにこの猫の死骸は「本物」であったということを、麻生芳伸編『落語特選(下)』(ちくま文庫2000)の解説で小沢本人が明かしている。

 私の役は「品川心中」の貸本屋の金蔵(ママ)。ウスバカですが人がよくて、品川遊廓ではかつて売れっ妓だったけど、今は落ち目で金に困っているお染に、一緒に心中しようともちかけられ、二人で裏の品川の海へ出ます。桟橋の先で、ちょっとためらっている金蔵は、お染にドンと突かれてドブン。お染も続いて飛び込もうとしますが、その時、「番町の旦那が金をこさえてきた。もう死ぬこたァないよ」と妓楼の若い衆の声に、「金ちゃん、わるいねえ」とお染はクルリ引き返していくのです。海へ落ちた金蔵、しかし品川の海は遠浅で足が立ちました。映画では金蔵が猫の死骸を抱いて海から出てくるところでフェイドアウトです。
 撮影所で小道具さんがずっと飼っていた猫の死骸を抱くとは、私、あまりいい気分はしませんでしたが、好きな落語の世界の人物を演じてまことに楽しく、忘れられない映画です。『幕末太陽伝』は、軽妙洒脱なユーモアと味わい深い諷刺、そして文明批評のこめられた川島監督ならではの一級の喜劇作品となりました。(小沢昭一「落語と私」『ちくま文庫解説傑作集』非売品2006:46-47)

 『競輪上人行状記』の犬の死骸の方は果してどうであったか。
 さて、この作品を観なおしていて、面白い、と思ったシーンがある。それは、頭を丸めた春道(小沢)と嫂役の南田洋子とが対峙する場面で、ここでは南田の口から重要な真実が明かされるのだが、まずはカメラが会話する二人をクロースアップ気味に捉え、右へ左へとせわしなくパンして発話者をフォローする。ところが小沢がその真実を知った後は、ミディアムショットになって、今度はカメラが切り返し(いわゆるショット・リバースショット)に転換する。二人の関係が親密なものから対立するものへと変わってゆく過程を巧みに表現しているように感じたのであった。
 小沢昭一といえば、先日、石原裕次郎が長期休養を経たあと*2の復帰第一作、中平康『あいつと私』(1961日活)も約14年ぶりに(石原プロの解散を意識したわけではないが)観た。この作品で石原と(同じ学生役として!)共演していた小沢と吉行和子とが、今度は生徒と教師役(小学校の先生で、小沢に英語を教える)として共演することになった春原政久『英語に弱い男 東は東西は西』(1962日活)*3と、それから春原政久『猫が変じて虎になる』(1962日活)とについては、もう一度観てみたい、と思っているのだけれど、なかなかその機会に恵まれずにいる。

競輪上人行状記 [DVD]

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  • 発売日: 2013/05/02
  • メディア: DVD

*1:ちなみにこの日は、三益愛子、田中重雄の命日でもあるようだ。

*2:スキー場での複雑骨折で、8箇月間休養していた。関川夏央『昭和が明るかった頃』(文藝春秋2002)によれば、「すでに二十六歳になっていた彼(石原)の最後の学生役の仕事だった」(p.116)という。

*3:小沢が吉行から英語を教わるシーンは、まさに捧腹絶倒だった。このタイトルから、つい、『あいつと私』主題歌(作詞は谷川俊太郎)の「あいつはあいつオレはオレ」を聯想してしまうのだ。