幻の湖

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幻の湖 [DVD]
昨日から今日にかけて、橋本忍『幻の湖』(1982,東宝)を観ました。公開当時は、興行的に失敗したこともあって、一、二週間で公開打切りとなり、地上波はもちろんCSでも一昨年前まで放送されることがなく、また、ソフト化もなかなかされなかった*1という、文字どおり「幻の」作品でした。しかし、キャストはたいへん豪華で、宮口精二大滝秀治北村和夫仲谷昇室田日出男北大路欣也関根恵子、隆大介、星野知子長谷川初範、かたせ梨乃などなど、まさに錚々たる面々。
ヒロイン役の南條玲子は、この映画のために公募で選ばれた「新人」。原作では、「二十二歳にしては無邪気な明るさ、そのくせどこか芯の強い眼や口許、…」(橋本忍『幻の湖』集英社文庫,p.9)と描かれているヒロイン。たしかに、南條玲子ならば適役です。
それにしても、彼女が後に「二時間ドラマの女王」になるなどとはこのとき一体誰が予想したでしょうか*2
さて、『幻の湖』。これが二回目の鑑賞です。一昨年の夏にはじめて鑑賞したときよりも、面白く観ることができたような気がします。それは私が、今年の五月末頃に橋本忍の原作を読んだこともあるからなのでしょうが、今回は一日間のインターバルをおいて観ることが出来たからでしょう。
とはいえ、この映画の筋をひととおり紹介するのはおよそ不可能で(というのも、一貫したストーリーを見出しがたいし、色々の解釈が成立ちそうなので)、無理やり一言でまとめるとすれば、「SF青春サスペンス時代劇的一大スペクタクル」とでもなりましょうか。とにかく、〈ごった煮〉映画なのです。いちおうは、「何を追って、何を求めて人間は走り続けるのか」というテーマを追究した作品なのだそうで、なるほど南條玲子が走るシーンは作品のかなりの部分を占めており*3、脳裡に焼きついて離れないほどのインパクトをもってはいるのですが、しかし何のために彼女は走ったのか、全く分らないうちに終幕を迎える。愛犬シロを殺されたことで生れた復讐の念だけがそうさせたわけでないことは確かなので、琵琶湖に沈む怨念がそうさせたのか? とか、いかがわしげな「イーグル」計画の一環であったのか? とか、まあ様々の解釈が有り得るでしょう。
また、「幻の湖」というキーワードで検索してみて、某ブログで「愛犬シロ」は琵琶湖に沈められて絶命した「みつ」の生れ変りである、という説があるのを知りました。そうすると、「お市の方」という源氏名をもつヒロインと、愛犬シロとの妙に深い絆にも得心がゆきます。しかしその他にも、たくさんの仮説が存在するみたいで、未だに統一的な見解は存在していないようです。
けれども本作品が、四百年前(あるいは琵琶湖が誕生しつつあった百五十万年前)という過去から四十五億年先の未来までのタイムスパンにまたがる作品であること、それにくわえて、舞台が琵琶湖から東京、そしてアメリカ、さらには宇宙へとつづくスケールの大きさをもっている作品であることは確かですし、シュールレアリスティックなラストシーンになると、意図の汲めなかった長めのワンカットや、尾坂道子(南條玲子)が日夏圭介(光田昌弘)を追ってひた走りに走るシーンがなんとなく意味のあるものとして甦ってくることもまた確かなので、「偉大なる失敗作」とか「キワモノ超大作」とかいうふうに断じて封印してしまうのはあまりにもひどい話だと思うのです。逆に、カルト作品として称揚するのも結局同じことなのではないかと思う。高評価を下すにしろ、酷評するにしろ、まずは作品自体にきちんと向き合うべきではないでしょうか。
また、この長い映画のアクセントになっているのは、回想シーンやら過去の映像の唐突な挿入、そして芥川也寸志の演奏するリストの交響詩前奏曲*4です。これが、ほとんど全篇を通して流れています。いくらなんでも大仰な感じがする、と言う人もあるでしょうが、しかし、リストがラマルティーヌの詩をもって「後づけ」解釈した『前奏曲』のテーマが、実は「生は死への前奏曲」であったということを考え併せるとき、はじめてその使用曲の意図に気づかされるのです。そうか、尾坂道子は、いや人間は、ただただ「死」に向かうために走っているだけだったのか――。この映画のラストこそが、実は全ての始まりであるのか――、と(あくまでこれは一例なのですが、要はそういう「深読み」も許される作品なのではないかということです)。
脚本家・橋本忍の世界 (集英社新書)
ところで、村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)は、本作品をこそ取り上げるべきであった、と思います。この本は、(著者が教育学者ということもあって)シナリオ解析や橋本忍自身についてよりも、作品そのものをとりまく環境や歴史的記述に紙面を多く割いているため、どうも作品の選択が恣意的になってしまったきらいがある。それに、『影武者』や『乱』を「駄作」だと切って捨てる態度もどうかと思うし、「脚本家」を再評価したい気持ちはわかるのですが、あまりにも「脚本」の力を信じすぎているような印象さえうけます。
それでも、せめて『幻の湖』には真正面から向き合ってほしかった。なにしろ、橋本忍が監督・製作・原作・脚本をこなし、「東宝創立50周年記念映画」として放った超大作なのですから。著者は、意図的に触れようとしないだけなのかもしれませんが、これを評価するかしないかで、橋本忍の脚本家としての位置づけはまた違ったものになると思うし、橋本忍は単なる「社会派」脚本家ではない、というべつの側面も見えてきたであろうと思うのです。惜しいことです。

*1:二〇〇三年、ようやくDVDが出ました。

*2:いっぽう、映画作品にはあまり恵まれず、降旗康男『別れぬ理由』(1987)の役どころには、悲壮なまでの女優魂さえ感じてしまったのでした。余談ですが、淀川長治さんは、何故かこの作品を『淀川長治映画ベスト1000』(河出書房新社)で称讃しています。

*3:まるで、『弾丸ランナー』なのです。

*4:とくに主題が高らかに奏される「戦い」の前後。ただし、少しだけ編曲してあります。またこの曲は、伊丹十三タンポポ』(1985)でも、粋な使い方がなされています。