思う。

幾つかのブログで見かけた記憶のある、長谷川鑛平『本と校正』(中公新書)を読む。これは面白い。まさに「ネタの宝庫」である。「意志表示だろうと踏んで」(p.43)はふつう「意思表示」なのではないか、と思ったりするのだが、それはいい。小泉丹がチラと出て来るが(pp.17-18)、ある目録で「小泉丹」とあるべきところが「小沼丹」となっていた、という誤植に言及していたのは、高橋輝次『関西古本探検』(右文書院)だっけ。
退屈男さんのブログ経由で、「文壇高円寺」の最新のエントリを読む。「思うとおもう」。私が思い出したのは、白川静『回思九十年』(平凡社)だ。白川先生は、石牟礼道子さんとの対談でつぎのように語っている。

白川 たとえば、「おもう」という言葉がありますが、そう読む漢字は今は「思」だけしかないんです。この字の上半分は脳味噌の形。その下に心を書くから、千々に思い乱れるという場合の「おもう」です。/『万葉集』では、「おもう」というときに「思」と「念」とがあって、「念」のほうが多いんです。「念」の上の「今」は、瓶に蓋をするかたちで、ギュッと心におもいを詰めて、深くおもい念ずるという意味の「おもう」です。(pp.376-77)

いつであったか、まだ文字講話が京都で開催されていたころ、白川先生は「『思う』はうじうじとおもい悩むの『おもう』でありますから、なるべく使いたくないものです」と仰っていたことがあった(だから、上に挙げた『回思九十年』の「回思」は謙辞なのである)。
それから最近読んだ、坪内祐三『考える人』(新潮社)。田中小実昌についての章があったが、それを読むと、どうやらコミさんも、「おもえる」「おもう」という表記を意識して使っていたらしいことが分る(因みにいっておくと、「かんがえる」は、「考える」という漢字表記を用いているみたいだ)。
私自身も、拘泥しても詮無いこと、と言われるのを承知の上で、「見る」「観る」を使い分けていたりするのだが、これなどは、まったく「こだわり」のうちには入らないか。