「器量」の話―『徳政令』餘話

 笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。
 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを述べ、これがなぜ「凡下(ぼんげ)百姓等」を意味するようになったかという問いを立て、その答えを追究している。
 まず笠原氏は考察の前提として、

 この頃(鎌倉末期―引用者)からまた、ある所領所職を、正当に知行しうる資格をもつ人間を「器量の人」とよび、その逆に資格のない人間を「非器」とよぶ法律用語が用いられはじめる(p.123)

といった条件を挙げたうえで、次のようにいう。

 ごくごく一般的にいって、中世の人間がある所領所職を、正当に(暴力や経済力だけではなく、社会的に認知された妥当性をもって)知行できる根拠は二つあると思われる。
 その一つは、前述の「器量」である。どんなに有勢の御家人であっても、それだけで庄園の本家職や領家職を知行するわけにはいかないし、逆に堂上の貴族が地頭職を手中にすることもできない。(略)
 第二は「相伝(そうでん)の由緒(ゆいしょ)」である。ある御家人領を、御家人Aが知行するのが正当か、御家人Bが知行するのが正当かは、その器量に差がないのだから、A、Bがその所領所職にもっている「相伝の由緒」の有無、もしくは強弱によって決定される。ここでいう相伝とは、血縁的な相続関係、いわゆる重代相伝に限られたものではない。一年前に他の御家人Cから買得した「買得相伝」であっても、もちろんかまわない。(pp.123-24)

 一方、中世的な秩序における「凡下百姓」は、「彼らなりの器量や相伝の世界があったかもしれない」とは云い條、「貴族や武士たちの人物の世界では、器量はもちろん、相伝とも無縁な人びとだった」(以上p.124)。しかし、やがて徳政の時代に至ると、経済力をつけた「凡下百姓」たちが相伝を獲得するようになった。それでも、厳然たる身分社会にあっては、どうしても「器量」までをも買うことはできない。これは逆説的に、「相伝の世界にふみ込み、事実の上でかかわりをもったこの時代、彼らは甲乙人に成り上ったのである」(p.125)と言い換えることが出来る。
 もっとも、笠松宏至『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)所収の「甲乙人」(pp.28-45)によると、

 このように「甲乙人」は「不特定者」から「百姓凡下」へと、その意味内容を変化させるが、ある時期を境にして、などということは勿論あり得ない。前者の「甲乙人」がはるか後代にも見出され、また庶民的ニュアンスの濃い用例が、古くから用いられていることも確かである。だから正確にいえば、語義の変化というよりも、両義の混在というべきかもしれない。(p.36)

といい、また、鎌倉的法秩序のもとでは、「『幕府の恩賞』という、これ以上ない『器量』と『相伝由緒』を獲得する時代が始」まり、「庄園や村落の内部でも、恐らく同じような事態が進行」することとなった(p.43)。そうして、「非器」の人という意味での「甲乙人」は姿を消してゆくことになる――、と解釈している。
 笠松氏はこれを、「臆測」だとか「想像」だとかいった謙辞で表現しているが、思考の過程が非常に明晰でかつ説得的である。私のようなまさに「凡下」の者は、「時代が下がって語の使用頻度が高まるにつれ、ニュートラルな語義をもつことばが卑語化したのでは」などとつい考えてしまい勝ちだが、なぜ「使用頻度が高ま」ったのかがまず問われなければならないわけである。
 さて、上記でキイ・ワードのように登場したのが、「器量」ということばであった。
 この「器量」で思い出したのが、『保元物語』のことである。正確には、藤田省三経由で知った『保元物語』、と云うべきか。
 竹内光浩・本堂明・武藤武美編『語る藤田省三―現代の古典をよむということ』(岩波現代文庫2017)所収「言語表現としての故事新編―転形期と表現について」の注に、次のようにある。

 藤田は「保元物語を読む」(一九七五年に平凡社セミナーとして全一〇回の講義をおこなった)で、従来、内容本位に「軍記物語」としてとらえられていた「保元物語」を、叙事詩的作品としてその形式と内容両方からその時代の言語を読み解き、転形期における言語表現の転換を講義した。その一端を藤田は「史劇の誕生」(『精神史的考察』平凡社、のちにみすず書房、一九九七年)として発表したが、藤田の保元物語論のごく一部にすぎない。他に保元物語の「器量」という言葉に焦点をあてたものとして藤田・鶴見俊輔多田道太郎の座談「現代の器量人とは何か」(『潮』一九七五年四月号、所収)、藤田・小田実の対談「器量こそが問われている」(『朝日ジャーナル』一九七四年一二月二〇日号、所収)がある。(p.285)

 上記の座談、対談ともに未見であるし、未完の「史劇の誕生」は平凡社ライブラリー版『精神史的考察』(2003年刊)で読んだが、そちらには「器量」への言及はなかった。それでも、『保元物語』に「器量」が現れるという上記の話が気になって、日下力訳注『保元物語』(角川ソフィア文庫2015)で読み直してみたことがある。
 手許のメモでは、それはたとえば、

器量をも選び、外戚(ぐわいせき)の安否(あんぷ)をも尋ねらるるに、これは当腹(たうぶく)の寵愛(ちようあい)といふばかりにて近衛院に位を押し取られ、…(上巻五、p.28)

文才(ぶんさい)、世に優れ、諸道に浅深(せんじん)を探る。朝家(てうか)の重宝(ちようほう)、摂籙(せつろく)の器量なり。(上巻六、p.28)

といった形で出て来る。ちなみに後者は左大臣藤原頼長に対する評言である。
 このような「器量」=「才能」ある人が現れる一方で、「凡下」(上巻四、p.23)や「凡夫境界(ぼんぶきやうがい)の者」(中巻四、p.97)といった表現も出ては来るが、これらは文脈上、阿羅漢や神仏に対する「普通の人間」=「凡下」「凡夫」なのであって、上で言及した「凡下百姓」の「凡下」とはニュアンスが異なる。これらの表現も、中世的な法秩序のなかでは、宗教的なニュアンスをまとわない身分的な意味を表すことばへと変容していったということが、あるいは想定されたりするのだろうか。
 ところで、藤田省三はこの「器量」という言葉に惹かれていたらしく、対象の時代はずっと下がるが、「我らが同時代人・徂徠―荻生徂徠『政談』を読む」(『語る藤田省三』所収)のなかでも「器量」について述べている。
 藤田は、徂徠が当時の朱子学者などとは違って、いつの時代にも「器量人」がいたと解釈していた(ただその「器量人」が上に立つかそうでないかという状況が異なるだけだ、という)ことに言及し、次のようにいう。

 では、器量人の「器」とは何か。徂徠はこういう時の比喩が巧みですから、「器」とは道具だから、特定のものに役に立つものだ、特徴のあるものだ。人間皆、得手不得手があるんだと、その得手不得手がない奴はぼんくらでどうにもならん奴だ、「器」とは、槍は尖っているから槍なんだ、槍がもし尖ってなかったら役に立たんわけだ。金槌が尖っていたら金槌にならん。だから槍というのは尖ってて金槌にならない、そういうもの。金槌は先が尖ってないから金槌として役に立つのであって、こういうものなんだと。人はある事柄で役に立つことを「器」と言う。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ、と。「器」とはそもそも癖のことを言ってるのだから、その証拠に人を見て一癖ありげと言う場合は褒め言葉ではないかと徂徠は言うわけですね。癖なき者には役立たずが多い、癖ある者には優れたる人多し、というふうに言うわけです。(略)器量を発見するのは、その癖をも含めて使ってみることであると。(p.191)

 「器量人」は「癖ある者」だ、というのは徂徠独特の解釈であるとしても、当時の一般的な意味において、「器量人」はリーダーたるべき「才能ある者」「才智ある者」を表していたらしい。藤田が述べたような徂徠の「器量人」講釈は、『政談』の巻三に出て来るが、たとえば巻一にも、「頭にすべき器量」「器量次第其内より頭を可申付」などといった形で「器量」が顔を出す。「器量」はこの時代にはもはや、生れ付いた地位やそれに伴う資格を表すものではなくなってしまっていた、ということなのであろうか。
 ちなみに『政談』は、その最良のテクストとしては平石直昭校注『政談 服部本』(平凡社東洋文庫2011)を挙げることが出来るだろう。特に岩波文庫版(辻達也校注、1987年刊)との校合が綿密で、同書が底本とした写本の誤脱を数多く訂している。また岩波文庫版が著者名を意図的に「荻生徂」とするに就ては、

それには十分な根拠があるが、辻氏も認めるように若い徂徠が「徂徠山人」と自署した史料がある(『墨美』二八四号、二三頁所掲の影印。この史料については岩橋遵成『徂徠研究』四三四頁に言及がある)。養子の荻生道済(金谷)や高弟服部南郭らの編集による徂徠の漢詩文集の題も『徂徠集』である。これらを考えると「徂徠」でもよいと思われる。(pp.415-16)

と述べる。
 「事項索引」が附いているのもありがたいことで、「器量」もちゃんと立項されていたのだった。

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

政談 (東洋文庫0811)

政談 (東洋文庫0811)

笠松宏至『徳政令』

 早島大祐『徳政令―なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書2018)の第一章に、次のようにある。

 ここで、日本の歴史学において、債務破棄を意味する徳政令がどのように理解されてきたかをまず紹介しておこう。
 最初にとりあげるのは、笠松宏至氏の研究である。
 笠松氏は、著書『徳政令』のなかで、戦前からの研究史をたどりつつ、この徳政令と呼ばれた奇妙な法令が、研究史上、どのように把握されてきたかを述べていた。
 具体的には近代法制史研究の父である中田薫以降の古典的研究において、鎌倉時代後半以降に頻発した徳政が、「しばしばわが経済界を擾乱し、かつ当時における法制の健全なる発達を阻碍」するものと否定的にとらえられてきたことを指摘した上で、なぜ債務破棄が徳政と呼ばれたのかと問いを立て直し、元の持ち主に返す=あるべきところに返すことが、古代~中世の政治において徳政とされた可能性を主張した。
 近代的観点からなされた、債務破棄としての徳政を愚かしいものと断じる態度を一転させ、中世固有の思想にあり方に迫った作業は、歴史認識を文字通り百八十度転換させた画期的なもので、現時点でも色あせない業績と言えるだろう。本書を笠松氏の著書と同じ書名にしたのも、一つには笠松氏へ敬意を表明するためでもある。(pp.27-28)

 また、呉座勇一『日本中世への招待』(朝日新書2020)の「〈付録〉さらに中世を知りたい人のためのブックガイド」にも笠松氏の『徳政令』が挙げられていて、紹介文の末尾で呉座氏は、

 とはいえ、(笠松氏の著書で―引用者)1冊に絞れと言われたら、やはり『徳政令』(岩波新書)だろう。長らく絶版状態だったが、読者からの熱い要望に応え、最近復刊された。借金帳消しをいう現代の常識を超える法令がなぜ生まれたか。この素朴な疑問から出発して、中世法の本質に迫る、日本中世史研究を代表する名著だ。(p.272)

と書いている。これらの記述に触発されたこともあり、「最近復刊された」というので*1、昨年の初めに大型書店をいくつか廻ってみたのだが、『徳政令』は店頭には見当らず、既に版元品切となってしまっていた。そして気がつけば、マーケットプレイスでは結構な値がつけられていた*2。地道に古書肆を廻ればもっと安いのがそのうち見つかるだろう、と気長に構えていたところが、昨年末に散歩がてら這入った近所の小さな「街の本屋さん」ですんなり入手できたのだから(しかもたったの100円で)、本屋巡りというのは面白い。
 その本屋は新刊販売が中心なのだが、店内の約十分の一のスペースを占める形で古書用の棚も設置されており、岩波新書の青版や黄版、カバーのない時代の岩波文庫や角川文庫などが1冊100円で出ている。そこに笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』初刷(1983年刊)を見出したのだった*3
 スリップがついたままだったので、おそらく新刊で売れ残って返本できずに倉庫かどこかで眠っていたものを店頭へ出してきたのだろう。
 とまれ、その『徳政令』を、この年始に味読していたのである。
 冒頭から、ひとつの偽文書の記述をもとに『吾妻鏡』の成立時期を「永仁五年以後」と断じたり(pp.13-14)、下久世の百姓らの陳状が原法令の「質券買得の地」を「質券売買の地」と書き替えた理由について解き明かしたりと(pp.22-24)、スリリングな考察が展開されるので、おぼえず引き込まれる。そして早々に、

 永仁徳政令で、Aという名の御家人が売った所領が、A御家人のもとへもどった。現代の所有の観念からすれば、何より大事なのはAという固有名詞である。しかし、このAをとり払ってみるとどうなるか。御家人の売ったものが御家人の手にもどった、ということになるだろう。もっと単純にいえば、それは「もとへもどる」という現象にすぎないのである。そして、もしこの、あるべきところへもどす(復古)政治こそが、徳政の本質であるとすれば、徳政と永仁五年の徳政令との間の違和感は、ほとんど消滅してしまうだろう。(p.54)

と結論らしきことを提示する。それから以下、「もとへもどる」ことが、中世社会において社会通念上決して不自然ではなかった、という事実が論証されてゆく。その過程で、笠松氏が重視するのが、いわゆる「中世語」の解釈である。
 同書では、たとえば「悔返す」(p.64)、「神物」「仏物」「法物」「僧物」「人物」(pp.65-76)、「本主」(pp.102-03)、「甲乙人」(pp.121-25)、「土風」(pp.131-32)、「時宜」(pp.134-35)といったことばが当時どのような思想のもとで使われていたか、という点に着目している。前掲の呉座著も、「笠松氏の研究の特徴としては、中世語への注目が挙げられる。現代では使われなくなった、あるいは現代とは意味が異なる中世の特異な語を蒐集し、その分析を通じて、中世社会独特の法慣習・価値観を浮き彫りにするのである」(p.270)と評する通りだ。
 笠松氏のその姿勢がよく表れているのが、以前「『首塚の上のアドバルーン』と『太平記』と」という記事で少しだけ触れたことのある、『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリー1993)だ(この本は呉座氏も紹介している)。ここに収められた「甲乙人」(pp.28-45)、「仏物・僧物・人物」(pp.86-119)を併せて読むと、『徳政令』に対する理解がさらに深まるし、『法と言葉の中世史』各論の問題意識も明確なものとなる。
 ちなみに、この「徳政」という現象が、鎌倉・室町期に限らず戦国期にもひろく見受けられることを教えてくれるのが、阿部浩一「戦国大名の徳政」(高橋典幸五味文彦編『中世史講義―院政期から戦国時代まで』ちくま新書2019、その第14講)である。阿部氏は、「為政者の法としての徳政令」が「中世社会の終焉とともに歴史の表舞台からは姿を消してい」った理由として、次のような説を提示している。

 一つは、徳政令が出されても公権力につながる蔵本たちには手厚い保護が与えられていたように、借銭・借米の破棄や土地取戻しを主内容としていた中世の徳政令そのものがきわめて限定的なところでしか有効性を発揮しえなくなっていたことがある。徳政免除や買地安堵にみられるように、債権債務関係や土地売買の安定化を求める社会的要請は確実に存在する。それ故に、戦国大名の徳政は「撫民」「善政」を幅広く含む内容のものとして民衆に訴えかける必要があった。(略)
 二つ目は、そうした「撫民」「善政」が本当に実現されるためには、災害や戦乱、代替りに発布される徳政令という限定的な法令ではなく、領国支配さらには社会全体の恒常的なシステムの中で構築されなければならなかった。(pp.244-45)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

日本中世への招待 (朝日新書)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

法と言葉の中世史 (平凡社ライブラリー)

中世史講義 (ちくま新書)

中世史講義 (ちくま新書)

  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 新書

*1:正確には「重版」だろう。どうも2016年のことらしい。

*2:その頃には、軽く1,500円を超えていた。

*3:ついでながら、このとき同時に入手したのが、同じ岩波新書黄版の鹿野政直『近代日本の民間学』であった。この本は、山本貴光吉川浩満『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社2021)で山本氏が「在野研究者や独立研究者というあり方に興味が」ある人にとって参考になる一冊として挙げていたので(p.116)、まさにタイムリーだった。

ふたたび『競輪上人行状記』

 過日、約8年ぶりで西村昭五郎『競輪上人行状記』(1963日活)を観た。前回は「日本映画専門チャンネル」の「ハイビジョンで甦る日の当らない名作」枠でかかっていたのを録画して鑑賞したのだが、はからずも主演を務めた小沢昭一を追悼するという形になってしまった。今回は、ちょうど西村昭五郎監督の誕生日に、そうとは知らずに観たのだった。のむみちさんの「名画座手帳2021」の1月18日條にメモをしておこうと思って披いたところ、西村の誕生日であることが示されていて驚いた*1、という次第なのだ。しかし、この間に西村は亡くなってしまったし(2017年歿)、主要登場人物を演じた加藤武も亡くなった(2015年歿)。
 8年前は鑑賞後に、

 おそるべき大傑作。原作は寺内大吉による。脚本は、大西信行今村昌平。いかにも今村らしいカラーに満ちた作品だ。とにかく、小沢昭一の鬼気迫る演技に注目。単に落魄の身となるのではなく、したたかさを持って「競輪上人」となり果ててゆくくだり。そして圧巻はラストの広長舌。
 春道(小沢)をその道に引きずりこんでゆく葬儀屋の色川=加藤武、競馬ぐるいの渡辺美佐子……。あくの強い役者が揃い、人間の慾、エゴ、ふてぶてしさ、汚らしさなどが有り体に描かれる。

などと書いたのだが、基本的にこの感想にかわりはない。「おそるべき大傑作」という言辞も、大袈裟ではなく、その通りだと考える。前回も思ったことだったが、ラストで小沢が広長舌をふるうモブ・シーンは、おそらくエキストラを殆ど使っていない。偶々そこに居合せたと思しい二、三人の男性が、カメラの存在に気づいた様子で笑みを見せているからだ。
 また前回、オープニング・クレジットとラストとで流れる黛敏郎の音楽について、「どことなく、ベルリオーズ幻想交響曲』の第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」をおもわせる」と書いたが、改めて聴きなおしてみると、テーマが完全に「ワルプルギスの夜の夢」(「魔女の夜宴の夢」とも)と一致しているので、むしろこれを編曲したもの、といえそうだ。
 それから、小沢がつまずいて地面に倒れる場面で、眼の前にちょうど犬の死骸があってヒエッとなる展開は、これまた大傑作の川島雄三幕末太陽傳』(1957日活)で(こちらはこれまでに少くとも5度は観た)、貸本屋金造(アバ金)=小沢が水の中から出て来ると猫の死骸を抱いているのに気づいてウワッとなるという、例のシーンのオマージュでもあるだろう。ちなみにこの猫の死骸は「本物」であったということを、麻生芳伸編『落語特選(下)』(ちくま文庫2000)の解説で小沢本人が明かしている。

 私の役は「品川心中」の貸本屋の金蔵(ママ)。ウスバカですが人がよくて、品川遊廓ではかつて売れっ妓だったけど、今は落ち目で金に困っているお染に、一緒に心中しようともちかけられ、二人で裏の品川の海へ出ます。桟橋の先で、ちょっとためらっている金蔵は、お染にドンと突かれてドブン。お染も続いて飛び込もうとしますが、その時、「番町の旦那が金をこさえてきた。もう死ぬこたァないよ」と妓楼の若い衆の声に、「金ちゃん、わるいねえ」とお染はクルリ引き返していくのです。海へ落ちた金蔵、しかし品川の海は遠浅で足が立ちました。映画では金蔵が猫の死骸を抱いて海から出てくるところでフェイドアウトです。
 撮影所で小道具さんがずっと飼っていた猫の死骸を抱くとは、私、あまりいい気分はしませんでしたが、好きな落語の世界の人物を演じてまことに楽しく、忘れられない映画です。『幕末太陽伝』は、軽妙洒脱なユーモアと味わい深い諷刺、そして文明批評のこめられた川島監督ならではの一級の喜劇作品となりました。(小沢昭一「落語と私」『ちくま文庫解説傑作集』非売品2006:46-47)

 『競輪上人行状記』の犬の死骸の方は果してどうであったか。
 さて、この作品を観なおしていて、面白い、と思ったシーンがある。それは、頭を丸めた春道(小沢)と嫂役の南田洋子とが対峙する場面で、ここでは南田の口から重要な真実が明かされるのだが、まずはカメラが会話する二人をクロースアップ気味に捉え、右へ左へとせわしなくパンして発話者をフォローする。ところが小沢がその真実を知った後は、ミディアムショットになって、今度はカメラが切り返し(いわゆるショット・リバースショット)に転換する。二人の関係が親密なものから対立するものへと変わってゆく過程を巧みに表現しているように感じたのであった。
 小沢昭一といえば、先日、石原裕次郎が長期休養を経たあと*2の復帰第一作、中平康『あいつと私』(1961日活)も約14年ぶりに(石原プロの解散を意識したわけではないが)観た。この作品で石原と(同じ学生役として!)共演していた小沢と吉行和子とが、今度は生徒と教師役(小学校の先生で、小沢に英語を教える)として共演することになった春原政久『英語に弱い男 東は東西は西』(1962日活)*3と、それから春原政久『猫が変じて虎になる』(1962日活)とについては、もう一度観てみたい、と思っているのだけれど、なかなかその機会に恵まれずにいる。

競輪上人行状記 [DVD]

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*1:ちなみにこの日は、三益愛子、田中重雄の命日でもあるようだ。

*2:スキー場での複雑骨折で、8箇月間休養していた。関川夏央『昭和が明るかった頃』(文藝春秋2002)によれば、「すでに二十六歳になっていた彼(石原)の最後の学生役の仕事だった」(p.116)という。

*3:小沢が吉行から英語を教わるシーンは、まさに捧腹絶倒だった。このタイトルから、つい、『あいつと私』主題歌(作詞は谷川俊太郎)の「あいつはあいつオレはオレ」を聯想してしまうのだ。

『ヴァルモンの功績』のルビの話など

 さる方から、ロバート・バー/田中鼎訳『ヴァルモンの功績』(創元推理文庫2020)を頂いた。バーの作品は、これまで宇野利泰訳の「放心家組合」だけしか読んだことがなかった。宇野訳「放心家組合」は、まず江戸川乱歩編『世界短篇傑作集(一)』(東京創元社1957)に収められ、これは3年後に『世界短編傑作集(一)』として文庫化された。さらに全面リニューアルされた江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』(創元推理文庫2018-19)では、第2巻に入っている。
 このほど出た『ヴァルモンの功績』にも、もちろん「放心家組合」(新訳)が入っており、そのほかに「ウジェーヌ・ヴァルモン」もの7作品と、ホームズもの(パロディ)掌篇2作品とを収めている。
 そのさる方が「遊んだ訳文」と仰しゃっていたように、まず訳者名の「田中鼎」だが、これはモーリス・ルヴェル『夜鳥』などを訳したことで知られる田中早苗(1884-1945)の名を意識したものであるようだ。そしてその本文については、訳者自身、

 本書の文体は非常に遊んで(挑戦して)いる。この試みを許してくださった版元には感謝しかないし、バーやムッシュ・ヴァルモンには謝罪しかない。もちろん無闇に遊んだわけではない。(略)原書は実際のところ古典教養が縦横に鏤められ、韻や語呂も多く、晦渋を極める翻訳者泣かせの作品である。このような原文を日本語にするには、相応の雰囲気が欲しい。そこで読みづらさを感じさせない程度に夏目漱石を意識し文体を練った(泉鏡花や柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした)。衒学的原文が浅学的訳文によって損なわれていないことを祈る。(「訳者あとがき」pp.367-68)

と書いているとおり、文体(というよりむしろ語彙の面)での工夫が随処に見られる。ことに面白く感じたのは、自在なルビの振り方である(独特なルビ、というので思い出されるのが、円城塔氏の『文字渦』のことである)。
 その例をあげると、「射干玉(ぬばたま)の夜」(「〈ダイヤの頸飾り〉事件」p.34)、「無頓着*1(じこまんぞく)」(「爆弾の運命」p.50)「没義道(おんしらず)」(同p.91)、「杜康(よきさけ)」(「手掛かりは銀の匙」p.105)、「歓伯(さけ)」(同前)、「斗十千(うまいさけ)」(同p.112)、「荘重的儀式(こけおどし)」(「チゼルリッグ卿の遺産」p.126)、「藉口(いいわけ)」(同p.129)、「口実(いいまえ)」(同p.131)、「当推量(はったり)」(「ワイオミング・エドの釈放」p.258)、「鍋取公家(びんぼうきぞく)」(「レディ・アリシアのエメラルド」p.292)……、といった具合。
 それから、「杯また盈々(えいえい)」(「手掛かりは~」p.109):「盈々(なみなみ)と」(「ワイオミング~」p.258)、「恰度(ぴったり)」(「チゼルリッグ卿~」p.135):「恰度(ちょうど)」(「チゼルリッグ卿~」p.149)「恰度(ちょうど)」(「放心家~」p.113)、「執拗(しゅうね)く」(「チゼルリッグ卿~」p.131):「執拗(しつこ)い」(「内反足の幽霊」p.215)「執拗(しつこ)く」(「レディ・アリシア~」p.305)のような読み分けや、「暫時(しばし)「少時(しばらく)」のような使い分け(「〈ダイヤの頸飾り〉~」「手掛かりは~」「内反足~」「ワイオミング~」)も面白い。
 「因業爺(いんごうじじい)」などもほとんど見ない言葉で、わたしはこれまでに、太宰治「散華」から、

……でも、うっかりすると、としとってから妙な因業爺(いんごうじじい)になりかねない素質は少しあるらしいのである。(「散華」『太宰治全集6』ちくま文庫1989:252)

という一例しか拾ったことがないのにも拘わらず、『ヴァルモンの功績』には二度も出て来る(「チゼルリッグ卿~」p.130,「内反足~」p.219)
 ちなみに『日本国語大辞典(第二版)』は「いんごうじじい」を立項せずに、「いんごうおやじ【因業親爺】」(用例なし)と「いんごうじじ【因業爺】」とを立項している。後者「いんごうじじ」の用例は次のとおり。

*落語・性和善(1891)〈三代目春風亭柳枝〉「大屋の寛六奴(め)、義理も人情も知らねへ隠剛老爺(インガウヂヂ)よ」

 また、訳者の田中鼎氏が「柴田天馬訳『聊斎志異』等も参考にした」と書いていることもさきに引用したが、それが奈辺にあるのか、まだ見極められていない。「窮措大(びんぼうがくしゃ)」(「爆弾~」p.56)*2や「峩冠大帯(りっぱないしょう)」(「チゼルリッグ卿~」p.124)あたりのルビの振り方にあるのではないか、と思ったのだが、『聊斎志異』の訳文でそれに類するものとしては、今のところ、

「君が見くびっていた窮措大(ひんしょせい)だって出世ができないこともなかろう」(「西湖主」、蒲松齢/柴田天馬訳『完訳 聊斎志異 第一巻』角川文庫1969改版:27)

しか拾えておらず、あるいは、その独特のルビの振り方ではなくて、使用語彙を参考にした、というくらいの意味なのかも知れない。
 さらに面白いのは、「訳者あとがき」に「ヴァルモン国語辞典〔抜萃版〕」を載せていることで(pp.368-69)、訳者は「『日本国語大辞典 第二版』にすら立項されていない語」(pp.368)として、使用語彙のうちのほんの一例(9語)を紹介している(完全版の発表が俟たれる?ところだ)。そのうちの例えば、

じょう‐ちょう【杖朝】礼記王制篇「八十杖於朝」]年齢八十歳をいう。「――だろうとこの熱情に指の先まで痺れるのだ」

は、本文では「レディ・アリシア~」に「杖朝(やそじ)であろうと、この熱情に指の先まで痺(しび)れるのだ」(p.289)という形で出て来る。また例えば、

てい‐じ【底事】何事に同じ。彼(か)の文豪も作品中に用いている。ちなみに吾輩の活躍を逸(いち)早く本朝に伝えたのも件(くだん)の文豪と聞いておる。

は、「放心家~」に「『フランス式の詭策(トリック)とは底事(なにごと)ぞ? ムッシュ・スペンサー・ヘール』」(p.166)という形で出て来る(なお、「彼の文豪」「件の文豪」というのは、後に述べるが、夏目漱石を指す)。
 「底事」は、白話的な性格の強い表現といえそうで、『辞海』編纂作業にも従事した張相(1877-1945)の『詩詞曲語辭匯釋』巻一*3が助字「底」の條を五條示し、その第一條「底,猶何也;甚也。」(p.85)で杜荀鶴「蠶婦」詩の後半部を引きつつ、

「年年道我蠶辛苦,底事渾身身著苧蔴?」*4言何事也。(p.86)

と記しており、すでに晩唐において「底事」が「何事」と同義で用いられていたことがわかる。
 ところで、初めに触れた「放心家組合」の話に戻るけれども、これが日本でとりわけよく知られているのは、エラリー・クイーン*5江戸川乱歩が激賞したということのほかに、漱石の『吾輩は猫である』がどうもこれを種本にしたらしい、という事実が知られているからだ。
 『猫』の当該箇所、「ネタばれ」になるのもまずいので、その冒頭のみ引いておこう。

「成程難有い御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の服や、名人の道具類を並べて置く。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べて置く。上等品だからみんな高価に極ってる。そこへ物数寄な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」(『吾輩は猫である』十一、新潮文庫2003改版:519-20)

 この引用部に見える「ある雑誌」というのが、「放心家組合」の初出誌をさすのではないか、そして漱石はその初出誌で「放心家組合」を読んだのではないか――と云われているのである。この後に披露される挿話が、「放心家組合」の内容とあまりにもよく符合するからだ。
 わたしが初めにそのことを知ったのは、瀬戸川猛資『夢想の研究―活字と映像の想像力』(創元ライブラリ1999)中の「灯台もと暗し」によってだった。
 瀬戸川は、『猫』中に「放心家組合」と「そっくりそのまま」の話が出て来ることを山田風太郎が「発見」したと述べたうえで、次のように書く。

 残念なことに、『放心家組合』が何という雑誌に掲載されたのか、わたしが調べた範囲ではわからなかった。バーが編集にたずさわっていた《アイドラー》という雑誌かもしれないが、断定はできない。この人は他にも沢山の雑誌に作品を発表していたからだ。漱石はその雑誌をどのようにして入手したのだろうか。当時はまだ神田の古書街も形を成していないころである。イギリスの雑誌が易々と入手できるとは思えない。丸善に注文して船便で取り寄せていたのだろうか。
 ここで、別の臆測が成り立つ。バーの短篇集は一九〇六年の刊行だが、『放心家組合』自体はその数年前に雑誌掲載されたものではないか、という臆測である。もしそれが一九〇二年十二月以前のことであれば、すんなりと平仄が合う。一九〇〇年十月から一九〇二年十二月まで、漱石はロンドンに留学中で、読書三昧に耽っていたからだ。『放心家組合』を、漱石はロンドンで読んだのである。あるいは、ロンドンで購ったその掲載紙を東京に持ち帰って読んだのである。――この推理が当たっているかどうかはわからないが、考え方としては無理のないものだと思う。(「灯台もと暗し」pp.203-04)

 『夢想の研究』の解説は丸谷才一が担当しているが(「真珠とりの思ひ出」)、この解説文中では上の文章については触れていない。しかしこれ以前(1993年3月7日収録)に丸谷は、須賀敦子三浦雅士氏との鼎談で、この「灯台もと暗し」の内容に言及している。

丸谷 これは瀬戸川猛資さんの『夢想の研究』ですが、これを読んでいましたら、『吾輩は猫である』の終わり近いところに出てくる放心家の話……。
三浦 ああ、夢みがちな、放心状態の放心ですね。
丸谷 ええ。作中人物が語るその話は、江戸川乱歩が後に推薦した奇妙な味の短編小説なんですって、どうしても推定してみると。そうすると、江戸川乱歩は『吾輩は猫である』を最後まで読んでないんじゃないかと(笑)、そういう瀬戸川さんの推定があるんですよ。瀬戸川さんはそれをとがめているわけじゃないけれど、さっき君の言ったバルトの話によれば、そこへ行くまでの間に読む必要がなくなることはあり得るわけね。
(「本とのすてきな出会い方」『須賀敦子全集 別巻』河出文庫2018:355-56)

 今では「放心家組合」の初出誌は明らかになっていて、リニューアルされた『世界推理短編傑作集2』に収められた解題「短編推理小説の流れ2」で、戸川安宣氏が、次のように書いている。

(「放心家組合」は―引用者)〈サタデイ・イヴニング・ポスト〉一九〇五年五月十三日号に掲載された後、〈ウィンザー・マガジン〉の一九〇六年五月号に再録された。そして同年、ロンドンのハースト・アンド・ブラケット社より刊行された連作短編集『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』の五番目の物語として収録された。(略)
 ところで、明治の文豪、夏目漱石がこの「放心家組合」を読んでいたらしい、と林修三、山田風太郎といった人たちが指摘している。『吾輩は猫である』の十一章で、漱石は登場人物の口を借りて、ある雑誌で読んだ詐欺師の話を開陳しているのだが、それはまさしく「放心家組合」の肝の部分なのである。(略)
 ご存じのように漱石はイギリスに留学したことがあったが、一九〇五年にはすでに帰国している(漱石のイギリス滞在は一九〇〇年から〇二年まで)。したがってここで言及している雑誌というのは、ロンドン滞在中ではなく、帰国後に読んだものだろう。漱石研究家に依ると蔵書の中に「放心家組合」の載った雑誌はないようだが、漱石が読んだ小説が件の作品であったことは間違いあるまい。(pp.369-72)

 上に見える林修三は、風太郎よりも早く「放心家組合」と『猫』の挿話との類似に気づいたというが、『ヴァルモンの功績』の「解説」(日暮雅通氏)にはさらに驚くべきことが書かれている。

 漱石といえば、『吾輩は猫である』の一シーンが本書第五話「放心家組合」をネタにしているという話が有名だが、この件について、ホームズ/ドイル研究家の植田弘隆氏が非常に興味深い事実を教えてくれた。
 問題のシーンは、同書最終章(十一)の中ほどに出てくる。迷亭君が、ある雑誌の小説を読んだらこういう詐欺師の話があったと言って、「放心家組合」の「5」にあるエピソードと同じ話をするのだ。このことを最初に指摘したのは誰なのか? 時系列的に書くと、次のようになる。
 昭和四十五年十一月二十日付の《朝日新聞》夕刊……鈴木幸夫早稲田大学教授がコラムで、山田風太郎から「『猫』の詐欺師の話はロバート・バーの短編からとったという指摘をした者はいるか?」という問合せがあったことを紹介。
 昭和四十五年十一月三十日付の《東京新聞》夕刊……匿名コラム「大波小波」が、鈴木幸夫のコラムを取り上げ、山田風太郎の“発見”に賛辞を送る。
 昭和四十六年一月三日・十三日合併号の《時の法令》……林修三が、「放心家組合」のことは自分がすでに昭和四十一年四月号の《ファイナンス》(旧大蔵省の広報誌)と昭和四十四年四月二十四日付の《日本経済新聞》夕刊で指摘したと、クレームの投稿。この後、朝日の担当記者と鈴木・山田両名から詫び状および釈明の手紙が来たことで、林は矛を収める。
 ところが、植田氏がたまたま購入した《別冊宝石21号》(昭和二十七年七月)に載っていた推理作家・狩久の随筆に、「探偵嫌いの漱石が、後者[放心家組合]を読んでいたと推定される記述が《猫》の終章にある」という記述があったのだ([ ]内筆者)。いやはや、奥の深いことで……。はたしてこの件もすでに誰かがどこかで書いているかもしれないが、念のためここに紹介しておくことにした。(pp.355-56)

 ただ田中鼎氏は、同書の「訳者あとがき」で次のごとく述べている。

 『吾輩は猫である』第十一に登場する迷亭が読んだ「ある雑誌」の「小説」は、内容の一致をみること、号こそ異なるが「放心家組合」の掲載誌であるウィンザー・マガジンを漱石が所有していることから、「放心家組合」の可能性が非常に高い。ただし「放心家組合」が掲載されたウィンザー・マガジンが一九〇六年五月号、問題の箇所を含む『吾輩は猫である』掲載のホトヽギスが一九〇六年八月号。当時の流通事情を考えると、そんなにも早く漱石が「放心家組合」を読んで自らの小説に反映できたのか、疑問なしとしない。(p.372)

 戸川氏が書いていたように、漱石は一九〇五年五月の「サタデイ・イヴニング・ポスト」で「放心家組合」に触れた、という可能性はないのだろうか? いずれにしても謎は尽きない。
 そういえば瀬戸川の『夢想の研究』は、「霧の中の群衆」という文章も収めており、ロンドンの「猛烈な濃霧」なる気候条件が、イギリスで探偵小説が「異常なほどの発達をとげた」大きな理由のひとつなのだろう、といった大胆かつ刺戟的な推理をしているのだが、「放心家組合」にも濃霧の描写が何度も出て来る。「ロンドンは霧が厚く罩(こ)め、吾輩は道に迷った。(略)霧はあまりに濃く、歩道に貼り出された新聞の見出しも読めぬ」(田中鼎訳p.161)、「霧が文字通りフラットの中にまで浸潤し、電灯があっても読めたものではない」(同p.162)……。
 かのディケンズの名作『荒涼館』の冒頭にも、濃霧の執拗な描写があることを、ふと思い出したのだった。

ヴァルモンの功績 (創元推理文庫)

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世界推理短編傑作集2【新版】 (創元推理文庫)

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  • メディア: 文庫
太宰治全集〈6〉 (ちくま文庫)

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  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 1989/03/01
  • メディア: 文庫

*1:徹底させるなら、「着」は「著」という表記が良かったかも知れない。

*2:訳者による「第二のあとがき」には、「学者」ならぬ「窮措大(びんぼうやくしゃ)」が出て来る(p.374)。

*3:手許のものは、1955年第三版に拠った中華書局版(1977刊)、その二分冊のうちの「上册」。

*4:「蠶」はここでは「養蚕」を指すのだろう。

*5:ついでながら、クイーン編『黄金の十二(ゴールデン・ダズン)』には、「放心家組合」と並んでポーの「盗まれた手紙」も入っているのだけれど、「放心家組合」にはまさにその「盗まれた手紙」に言及した箇所がある。「有り体に言えば、住人不在の間に行う略式の家宅捜索だ。エドガー・アラン・ポオの名作「盗まれた手紙」にもその種の行為が記されている」(田中鼎訳p.158)。

斎藤精輔が語る怪談

 野呂邦暢の「剃刀」を読んで、それに触発されるかたちで再読したのが石川桂郎『剃刀日記』のうち数篇(「蝶」「梅雨明け」など)であったり、また志賀直哉の「剃刀」であったりしたのだが、志賀の「剃刀」は、『焚火―志賀直哉全集 第二巻』(改造文庫1932)所収のものを読み返したのだった。
 改造文庫版『焚火』は4年前、『文章読本X』(中央公論新社)の記述に影響され、標題の「焚火」を読むため古書肆で購ったものであるが*1、以前この「焚火」を読んだときはその面白さをあまりよく理解できなかった。しかし今回「剃刀」を読むついでに「焚火」も読み直してみたところ、どういう訣か、無性に面白く感じたのだった。
 この短篇は、芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』で「あらゆる小説中、最も詩に近い小説」「散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いもの」「通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説」の代表的な国内作品として挙げており(芥川龍之介谷崎潤一郎千葉俊二編『文芸的な、余りに文芸的な|饒舌録ほか 芥川vs.谷崎論争』(講談社文芸文庫2017:28-38)、谷崎潤一郎との論争のきっかけをつくった作品のひとつでもある。今これを手軽に読める文庫としては、『小僧の神様 他十篇』(岩波文庫2002改版)もあるが、ざっと見較べてみると、「黒檜山(くろび)」(岩波):「黒檜山(くろびざん)」(改造)、「集った」(岩波)*2:「集まつた」(改造)等々、ルビや字句の若干異なるところがある。
 ところで「焚火」は物語の末尾、作中人物の会話の内容が不思議な話、怪談めいたものになって行く。その一部を引いておく。

「ぢやあ、此山には何んにも可恐(こは)いものは居ないのね」と臆病な妻はKさんに念を押した。すると、Kさんは、
「奥さん。私大入道を見た事がありますよ」と云つて笑い出した。
「知つてますよ」と妻も得意さうに云つた。「霧に自分の影が映るんでせう?」妻はそれを朝早く、鳥居峠に雲海を見に行つた時に經驗した。
「いゝえ、あれぢやあ、ないんです」
 子供の頃、前橋へ行つた夜の歸り、小暮から二里程來た大きい松林の中で左(さ)う云ふものを見た、と云ふ話だ。一町位先でぼんやり其邊が明かるくなると、その中に一丈以上の大きな黒いものが起つたと云ふ。然し、暫くして大きな荷を背負(しよ)つた人が路傍に休んで居たので、其人が歩きながら煙草を飮む爲めに荷の向うで時々マッチを擦つたのだと云ふ事が知れたと云ふ話である。
「不思議なんて、大概そんなものだね」とSさんが云つた。
「でも不思議は矢張(やつぱ)りあるやうに思ひますわ」と妻は云つた。「左う云ふ不思議はどうか知らないけど、夢のお告げとか左う云ふ事はあるやうに思ひますわ」
「それは又別ですね」とSさんも云つた。そして急に憶ひ出したやうに、「そら、Kさん、去年君が雪で困つた時の話なんか、左う云ふ不思議だね。未だ聽きませんか?」と自分の方を顧みた。
「いゝえ」
「あれは本統に變でしたね」とKさんも云つた。
 かう云ふ話だ。(改造文庫版pp.27-28)

 この後、「本統に變」な話が始まるのだが、未読の方の愉しみを奪うことにもなるので、そのくだりを引くのはやめておく。ちなみに上で「霧に自分の影が映る」と「妻」が言っているのは、「ブロッケン現象」のことと思われ、これについてはかつて述べたとおり、ウィンパー『アルプス登攀記』幸田露伴「幻談」も言及している。なお余談にわたるが、私が「ブロッケン現象」を初めて知ったのは小学生の時分、佐藤有文監修『怪奇全(オール)百科』(小学館コロタン文庫)のカラー口絵を見たことによる。
 さて「焚火」は、上で見たように突如として怪談じみた展開となるのだが、それでふと思い出したのが開高健『夏の闇』で、こちらも作中に次のような怪異譚が唐突に出てくる。

 旅館にもどろうとして二人で裏通りを歩いていった。夕方のひとときはざわめいていたのにもうまっ暗な下水溝となっていて、人の姿がどこにもない。あちらこちらに酒場や料理店の灯が虫歯の穴のような入口を照らしているが、壁には私たちの足音が低くこだまするだけである。闇しかない路地に入っていくと汚水に浸りこんでいくような気持がする。この市ができたときに山からはこびこまれてそれ以来一度も日光を浴びたことがないのではあるまいかと思いたくなるような石が積みあげられている。冬を吸収したままで凍てついている、濡れた、かたくななその壁のよこをすぎたとき、むせるような立小便の酸っぱい腐臭のさなかに、ふいにあたたかい花の香りとすれちがった。私は闇のなかでたちどまった。
「誰か歩いていったのかな」
「どうかしら」
「靴音を聞いたかい?」
「ずっと私たちきりだわ」
「ドアのしまる音も聞かないね?」
「そう思うけど」
「だけど香水の匂いがする。君のじゃない。いますれちがった。女とすれちがったみたいだ。フレッシュで、うごいていた。誰もいないのに不思議だな。どういうわけだろう」
「幽霊と浮気したいの」
 ひくく含み笑いしてからふいに女が腕をからみあわせ、うむをいわせぬ力でひきよせると、背のびしてくちびるをよせてきた。(『夏の闇』新潮文庫1983*3:56-57)

 数年前に、これと同工の「実録怪談」をネットか何かで読んだことがあって、開高のこの小説をもとにしているのではないか、と思ったことであった。
 なぜか突然怪奇な話が挿入される、といえば、『辞書生活五十年史』という書物もそうであった。辞典編集者の斎藤精輔(1868-1937)が最晩年に自伝として書き上げたこの本にも、いきなり怪談を語り始めるくだりがあって、斎藤はあるいは相当の怪談好きだったかも知れない、とおもったことがある。
 『辞書生活五十年史』は初め少部数の謄写版として世に出たもので、森銑三が「斎藤精輔の自伝」*4小出昌洋編『新編 明治人物夜話』岩波文庫2001所収:226-37)で次のように書いている。

 かような内容のある書物が、広く知られずにいるというのは惜しいといえばやはり惜しい。他日この種の珍本を集めて、明治文化全集風の刊行事業でも起されるならば、本書の如きは、第一に推薦してよいものだということを、まず一言して置きたい。
 『辞書生活五十年史』は、菊判袋綴の一冊で、本文は百六十頁に及んでいる。二、三時間にして読了せられるほどのものであるが、その内容は実に充実しており、それを簡約して紹介するなどということは、到底なし難い。(『新編 明治人物夜話』p.228)

 森は、当該の自伝中に中井錦城や赤堀又次郎らが登場することに言及したうえで(同pp.232-36)、「『辞書生活五十年史』は、昨一年(1962年―引用者)を通じて私の読んだ書物の内でも、最も異色に富んだものの一つであったというを憚らぬ」(p.236)とこの一文を結んでいる。わたしも『辞書生活五十年史』は確かに異色の本だとおもうのだが、「異色に富」むように感じられたのは、そう大部の書物でもないのに、怪談めいた挿話がところどころに差し挟まれているという点にもある。
 『辞書生活五十年史』は、森の歿後6年を経てから図書出版社の「ビブリオフィル叢書」というシリーズに加わった。現在、新本では手に入らないが、古書ではわりと容易に入手がかなう。わたしは13年前に(今はなき)上野古書のまちで購ったのだが、その後も古書市などで何度か見かけたことがある。
 鶴ヶ谷真一氏もビブリオフィル叢書版でこれを読んで、「辞典編集 斎藤精輔」(『古人の風貌』白水社2004:36-45)という一文をものしている。その文中で鶴ヶ谷氏は次の如く述べる。

 斎藤はいわば辞典をつくるために生れてきたような人物だった。緻密と熱意。不幸や不遇にもめげぬ闊達さ、そして相手に好感をいだかせるような晴朗な人柄。若いころ三省堂辞典編集所にあって、所長の斎藤に親しく接した長田恒雄氏によると、「先生は女性的ともいえるやさしい、端正な風貌だったが、一日も酒をきらしたことがなく、そのくせ、用心に新薬ばかり買いあさって『いつも酒ののめる体にしておかなくちゃね』といっていたほど酒好きだった。酔っぱらって二階からころがりおちたときも『酒飲みは決してけがはしません』とけろりとしていた。温厚な学者であるばかりでなく、一種の豪傑でもあったのだろう」。酔って転落するのが偉いわけではないが、緻密にして豪放磊落な一面をかねそなえていたことは、多くの執筆者をたばねなければならない百科事典の編集者には必要な資質だったのかもしれない。(『古人の風貌』p.40)

 ちなみに、詩人としても知られる長田恒雄の回想部分は、「朝日新聞」1962.9.25付夕刊の「私の先生」という記事に拠るらしい。
 では、その『辞書生活五十年史』で語られる怪談を以下に紹介しておこう。まず斎藤が数えで十歳の頃、父の赴任先の三重県へ母と船で向かう場面である。

それより神戸に至る途中、播磨灘上月明の夜の事なりき、船頭たちと種々様々の話をなせる中、船頭の一人「岩」なる者、色々の怪談を語り出で、この辺には「海坊主」という者出没し、船を覆えし旅客を食い殺す事ありとて、余等を嚇したりしが、船の進行中「岩」が上甲板にて櫓を漕ぐとき、いかなる油断ありしにや、播磨灘の只中に真逆様に墜落せり。他の船頭おおいに驚き、これ「海坊主」にさらわれたるものなるべしと大騒ぎをなししが、まもなく「岩」は同輩に救われて船に帰り来り、岩国出発以来一ヶ月目にしてようやく大阪に安着することを得たり。こと六十年以前の昔なれど、今なおこの海坊主の恐しさが余の心に残りて、ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり。(pp.5-6)

 「(旧制中学の時分に)教師欠席の休暇を利用し、付近城山の頂上なる護館神の森に遊びぬ。この森林は城山の最高峯にして、昔より天狗が住むと称し、人々これを恐れてこれに登ることなかりしが、余等はこれを事ともせず、意気揚々とここに登り、樹を斬りて木刀とし、もって盛に剣闘を試み、天狗よ出でよと呼び叫びしも、ついに何等の事なく下山するや」云々(pp.23-24)、といった豪胆ぶりを示したさしもの斎藤でも、海坊主については、「ときどき身の毛のよだつ思あらしむることあり」というほどなのであるから、幼時のこの体験は、相当恐ろしいものとして心に刻まれたのだろう。
 次は斎藤が岩国の中学に入学してから間もない頃、母が投身自殺を遂げてしまうのだが、その後日譚を述べたくだりである。

 余はこれより四十九日の間、毎夕普済寺山の母の墓に詣り、墓側の石灯籠に油を注ぎ、火を点じて帰るを例とせしが、始めは気付かざりしも、四、五日後帰山の途中、ふと山上を回顧すれば、今直前に火を点じて帰りし灯火の消えおることを知り、すぐに後へ引き返し、さらに火を点じて山を下り、再び振返り見れば、火のまた消えおるを見る。よって再三これを繰返ししが、いつも点火してまもなく消ゆることいかにも訝しく、家に帰りて集いおる人々にその旨告げしに、その座中より一人の老僕膝を進めて、それこそ思い当る事あり、やつがれ二、三日前墓掃除に赴きしが、その墓の後に大なる狐穴あるを見、枯木を押入れ火を点け、燻し攻めにして帰りし事あれば、多分その狐共の復讐なるべし、明日はやつがれも同伴してその様子を伺うべしとて、その翌夜老僕は余を伴いて墓地に至り、いつものごとく皿に油を注し、灯心に火を点じて帰途につき、山下よりこれを見上ぐるに、いつもと違い火は煌々として輝き何等の異状なし。老僕これを怪しみそのゆえいかがならんと余に尋ねしに、余は笑って、「昨夜会合中のある人の勧めにより、油揚を三丁携え行き、その狐穴に入れ置きたれば、狐はこれを徳として灯籠には仇をなさざるものならん」と答え、老僕も「あるいは然らん」とて共々笑いながら帰家し、余はその翌日よりまたまた単身にて油揚を携え点火を勤とせしが、その後は以前のごとく灯火の消ゆる事なかりき。(pp.21-22)

 山に天狗がいるだとか、これは狐狸の仕業だとかいった話柄が、当時はごく自然に人々の口の端にのぼっていたという事実はきわめて興味ふかい。
 三つめは、斎藤が百科事典を編纂するにあたり、三省堂の創業者亀井忠一と二人で「専門語以外の本文の付訳」に従事するための場所をさがしに、湘南、大磯を経て箱根まで向かったときの話。明治二十二年頃のことである。

さらに車を飛ばして小田原に出で、鴎盟館というに投宿せり。この旅館は海岸景勝の地に在りて、眺望すこぶるよろしく、余等両人の意に適し、この夜は余と亀井氏とは室を異にして岸打つ濤声を聴きつつ静に眠につけり。しかるに、夜半物音騒がしく、亀井氏余の室に入り来りていわく、余不思議にもベルの鳴る音盛に聞えたり。風のいたずらとも見えで、怪奇の至に絶えず、君これを聞かざりしやと、余はまったくこれに気付かざりし旨を答えしも、亀井氏は今夜独寝せんこと、いかにも心寂し、君の部屋に寝ねんとて、自ら褥を余の室に移したり。その後何事もなく朝まで熟睡せしが、翌朝女中の膳部を持来りし際、亀井氏は前夜の事を女中に告げ、御前達はこれを知らざりしやと問いしに、女中もさらに心付かざりし旨を答えぬ。この音はたして何の音なりしや、いまだに判明せざれど、亀井氏はさかんに変化説を唱え、後年までしばしば当時の事を語り出で、身振いしおりたり。(pp.68-69)

 むろん同書は、辞事典の誕生秘話がメインで語られていること云うまでもなく、『日本百科大辞典』編纂の苦心談や、足助直次郎による漢和辞典編纂の話(pp.93-94,p.101)など、この本でしか知り得ない(だろう)裏話も満載だ。しかし、上記のような意外な一側面もあるということで、あくまで怪異譚についてのみ、ここで紹介した次第である。

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様 他十篇 (岩波文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

夏の闇 (新潮文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

新編 明治人物夜話 (岩波文庫)

  • 作者:森 銑三
  • 発売日: 2001/08/17
  • メディア: 文庫
古人の風貌

古人の風貌

*1:「焚火」「剃刀」のほか、「子供三題」「夢」「山形」「和解」を収める。300円で買った。

*2:「集った」にはルビ無し。これは岩波文庫の編集方針からすると、「あつまった」ではなく、「つどった」と訓ませるのだろう。

*3:手許のは1989.2.15の九刷。

*4:小出昌洋氏「編後附言」によれば、もとは「ももんが」昭和三十八年三月号に掲載された「三篇」のうちの「一つの自伝」。のちに改題のうえ、『明治人物夜話』に収録された。

『野呂邦暢ミステリ集成』のことなど

 当ブログでかつて触れたことのある本が、文庫本というあらたな形になって再び生命を吹き込まれ、世に出るのはうれしい*1
 たとえば、日夏耿之介『唐山感情集』(彌生書房1959)は2018年7月に講談社文芸文庫に入った*2。また、岩田宏『渡り歩き』(草思社2001)は2019年2月に草思社文庫に入った。
 それからこちらは、初文庫化ではなくて再々文庫化なのだが、福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ』(講談社文庫1981)が、福永武彦「隠れんぼ」「ポーについての一問一答」、中村真一郎「『バック・シート』の頃」、丸谷才一「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」等々を増補のうえ、2019年10月に東京創元社から完全版として出た。ちなみに講談社文庫版は、1978年刊の決定版(講談社*3を底本としている。講談社文庫に収められた決定版あとがきの文庫版後記によると、

 ただしこの文庫版『深夜の散歩』では、わたしの「バスカーヴィル家の犬と猫」「二次的文学」「終り方が大切」の三篇は版権の関係で収めることができなかつた。(p.285)

という。さらに当該のあとがき(創元推理文庫にも再録)の末尾には、「和田誠さんのおかげできれいな本が出来あがつて、非常にうれしい」とあるが、創元推理文庫版は和田のイラストを全て省いており、カバーのデザインも、和田からクラフト・エヴィング商會によるものへとかわっている。
 『深夜の散歩』は、これまた最近ふたたび文庫化された生島治郎の自伝的実名小説『浪漫疾風録』(中公文庫2020)にも出て来る。せっかくなので引用しておく。

 たとえば、新刊の海外ミステリを紹介するコラムに『深夜の散歩』というのがあって、はじめは中村真一郎、さらに福永武彦丸谷才一とつづいて、名コラムの誉れが高くなったが、この三人の原稿を取りに行くのはずっと越路(生島治郎本人―引用者)の仕事になった。
 その月に出た『ハヤカワ・ポケット』の新刊を持って行き、各作品のあら筋を述べ、その中からコラムに取りあげる作品を選んでもらう。
 三人とも音に聞えた評論家でもあり作家でもあったから、越路ははじめかなり緊張したものだが、純文学にかかわることでなく、しかも三人ともミステリは好きだから、このコラムを書くのは気分転換になったらしく、越路が会うときはおおむね機嫌はよろしかった。ただし、越路の方はその月に出た新刊全部に目を通し、ご進講の準備をしておかなければならない。
 中村真一郎はざっくばらんな人柄で、夏場などパンツ一枚の姿で平気で客と応対するというところがあり、しかし、平易な文章で鋭く現代ミステリの在りようを指摘してくれた。一方、福永武彦は気むずかしそうで、姿勢にゆるぎがなく、相対するたびにこっちも姿勢を正さざるを得ない。
 神経のそよぎが表にあらわれているような感じがしたが、ミステリを語りはじめると機嫌が良く、新しいミステリに対する好奇心も強かった。
 丸谷才一は三人の中では一番若く、やや童顔のせいもあって、良い意味での書生っぽさを残している気配があった。声が大きく、博識で話術に長け、しゃべり出すとその面白さに魅きこまれ、一時間ほどはあっという間だった。(pp.94-95)

 このように『深夜の散歩』は、編集者としての生島治郎がいなければ成り立ちえなかった企画なのだが、丸谷の博識ぶりと大音声ということで思い出すのが、このブログでも以前引用したことのある沢木耕太郎「ポケットはからっぽ」(『バーボン・ストリート』新潮文庫1989)である。
 沢木氏は以下のように書いている。

 ある日の午後、私は目黒の駅に近い洋菓子屋のティー・ルームで女性と待ち合わせをしていた。仕事ではなく、人並にいわゆるデートというやつをしていたのだ。(略)私は、私の背後に坐ったオッサンの大きな声に、知らないうちに気持を奪われていたらしいのだ。オッサンの声は大きく、よく響く声だった。しかし、その声が大きく響くだけならそう気にもならなかったろう。自然と耳に入ってきてしまうそのオッサンの話が、やけに面白かったのだ。プロ野球の戦績と総選挙の結果との因果関係とか、酒場の勘定の高低と文学の水準との連関とか、話題はとどまるところを知らないかのように広がっていく。(略)
 まったく、若い男女の仲を引き裂こうというこの不届きなオッサンとはいったいどんな男なのだろう。私はどうしても背後のオッサンの顔がみたくなり、一度手洗いに立ち、戻ってくる時にチラッと盗み見をすると、なんとそこに坐っていたのは、和田誠描くところの似顔絵にそっくりの顔をした、丸谷才一だった。(「ポケットはからっぽ」pp.77-79)

 話を戻そう。最近では野呂邦暢「ある殺人」(「ある殺人」はここなどで言及)が、野呂の他のミステリ作品やエセーとともに纏められて文庫オリジナルの『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫)として出たこと(今年10月)も、心躍る出来事であった。もっとも、「ある殺人」は初めて文庫に入ったわけではなく、少なくとも『前代未聞の推理小説集』(双葉文庫1993、版元品切)でも読むことができる*4
 中公文庫はこの8月から3カ月連続で、中央公論新社編『事件の予兆―文芸ミステリ短篇集』、日影丈吉『女の家』、『野呂邦暢ミステリ集成』と、堀江敏幸氏による解説を附したミステリ作品集(『女の家』のみ長篇)を刊行しているが*5、『事件の予兆』に収められた野呂の「剃刀」は、再び『野呂邦暢ミステリ集成』に収録されている。この「剃刀」は、奇妙な味というかリドル・ストーリー的な展開になっており、誰しも理容室や美容院で一度は感じたことがあるだろう恐怖(この恐怖については、例えば原田宗典氏もエセーで言及していたと記憶する)を鮮やかな手際で描いてみせる。書名には「ミステリ」と銘打ってあるが、こういった作品も含まれるので、この「ミステリ」は、広義のものと云いうる。
 野呂の「敵」という短篇はこのミステリ集成で初めて読んだが、これはタイトルも同じヒュー・ウォルポール(1884-1941)の「敵」(The Enemy)に着想を得たか、あるいはそれを意識した作品ではなかろうか。ウォルポールの「敵」(倉阪鬼一郎編訳『銀の仮面』創元推理文庫2019所収←国書刊行会2001)では、チャリング・クロス街で本屋を営む主人公ハーディングが毎朝出会うトンクスに激しい憎悪を抱く。トンクスは様々のことを無神経にべらべらと喋りまくるし、ハーディングから見たトンクスの描写は、確かにいちいち生理的嫌悪を催させるものである。
 他方、野呂の「敵」は、「彼」があらゆる場所で出会う「そいつ(やつ)」に(おそらく一方的な)憎悪の念を募らせる。「彼」は「そいつ」とは一面識もなく、ひとことも話したことがないので、その憎しみの感情はきわめて理不尽なものだ。しかし作中人物の匿名性*6がかえって現実的な手ごたえを感じさせもする。ラストは、「彼は待った」のリフレイン、そしてたたみかけるような短文の効果的な多用で、結末の意外性をいっそう引き立たせることに成功しているように感じる。ウォルポール「敵」のラストとはまったく趣を異にするが、読み較べてみると面白い。
 野呂といえば、さきに紹介した沢木氏の『バーボン・ストリート』に「ぼくも散歩と古本がすき」というエセーが収められていて、野呂と山王書房店主・関口良雄との交流について書いている。
 沢木氏は、「野呂邦暢には(関口とのやり取りが―引用者)よほど鮮やかな印象として残っているらしく、この時の経験は形を変えて三度エッセイの中に登場させられている」(p.226)、「そうでなければ、野呂邦暢がどうして三度もエッセイに書くだろう」(p.231)と、「三度」というのを強調しつつ述べているのだが、その三度とは、多分、「S書房主人」(野呂邦暢『兵士の報酬―随筆コレクション1』みすず書房2014所収pp.331-32)、「花のある古本屋」(野呂邦暢『小さな町にて―随筆コレクション2』みすず書房2014所収pp.116-18)、「山王書房店主」(同前pp.315-17)を指すのだろう。
 一方の関口は遺稿集『昔日の客』を世に残した。そこでは野呂との思い出についても書いている。野呂の「花のある古本屋」は、その関口の追悼文集『関口良雄さんを憶う』に収められたものである。
 『昔日の客』『関口良雄さんを憶う』ともに、島田潤一郎氏がつくった夏葉社から復刊されているのはよく知られるところだ。『昔日の客』の方は「現在10刷りまで版を重ねている」*7という。なおその島田氏も、自著『あしたから出版社』(晶文社2014)で、「沢木さんの『バーボン・ストリート』に関口良雄さんと『昔日の客』のことが感動的に綴られている」(p.139)と、沢木氏の文章に触れている。

唐山感情集 (講談社文芸文庫)

唐山感情集 (講談社文芸文庫)

  • 発売日: 2018/07/10
  • メディア: Kindle
文庫 渡り歩き (草思社文庫)

文庫 渡り歩き (草思社文庫)

  • 作者:宏, 岩田
  • 発売日: 2019/02/05
  • メディア: 文庫
浪漫疾風録 (中公文庫)

浪漫疾風録 (中公文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

野呂邦暢ミステリ集成 (中公文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

銀の仮面 (創元推理文庫)

*1:直接その本について言及したわけではなくても、たとえば最近(今年10月)、田岡嶺雲『数奇(さっき)伝』が講談社文芸文庫に入ったこともうれしく思った。嶺雲については約8年前に、西田勝編『田岡嶺雲選集』(青木文庫1956)を入手した際に書いている(https://higonosuke.hatenablog.com/entry/20120807)。

*2:井村君江氏によるエッセイ「『唐山感情集』の思い出」と南條竹則氏による解説「日夏耿之介の訳詩と『唐山感情集』」とを附す。

*3:元版は早川書房刊、1963年。

*4:この文庫は刊行時、近所のコンビニで買った。当時はコンビニにも、光文社文庫三笠書房知的生き方文庫、双葉文庫、ワニ文庫、KKベストセラーズなどがよく置いてあった。

*5:8月には、河野龍也氏編(解説も担当)の『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』(中公文庫)も出ており、わたしはこれではじめて表題作を読むことを得た。作品中に漂うただならぬ気配から超自然的現象を扱ったものなのかと思いきや、ラストは合理的解決に導かれる。

*6:野呂邦暢ミステリ集成』所収作品のうち、前述の「剃刀」や、「もうひとつの絵」などでも、登場人物は「男」だったり「女」だったりして、特定の名が与えられていない。ついでながら、「もうひとつの絵」は何となく松本清張の「潜在光景」を思わせる。野呂はエッセイ「南京豆なんか要らない」で、「大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない」(『ミステリ集成』p.295)云々と述べ、明らかに清張を念頭に置いた社会派批判を行っているのだが、清張の初期の短篇群に登場する人物は、どこにでもいるような平凡な男だったり女だったりする場合がむしろ多い。

*7:「現代の肖像―島田潤一郎」(『AERA』2020.10.19)

猪場毅と『広辞苑』

 永井荷風『来訪者』の主要登場人物2人のモデルのうち、白井巍(たかし)のモデルになった平井呈一(1902-76)はいまも読まれる翻訳作品を数多く残しているし、その弟子のひとり荒俣宏氏が語り継いでいることもあってよく知られているものの*1、木場貞(てい)のモデル・猪場毅(1908-57)の方は、これまではあまり知られていなかった。
 今年の初め、善渡爾宗衛+杉山淳 編『荷風を盗んだ男―「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)が出て、彼にもようやく光が当るようになってきた*2。その後6月には、1980年代初めに私家版として出た花咲一男『雑魚のととまじり』が幻戯書房から刊行されていて(編集協力に『荷風を盗んだ男』の善渡爾氏、杉山氏の両者が名を連ねる)、このpp.66-70にも猪場が出て来る。花咲は彼の第一印象について、「定かに覚えていない」が、「顔色の悪い、むくんだような顔付と、さっぱりしない、汚れた服装が浮んで来る」(p.66)と書いている。
 私は、かなり以前に『来訪者』を新潮文庫版で読んでいたとは云い條(最近、岩波文庫にも入った)、実際の猪場の人となりについては、石川桂郎俳人風狂列伝』(中公文庫2017←角川選書1974)を読んで知ったのがようやく初めてのことで*3、しかもそれは、俳号の「伊庭心猿」としてであった。
 伊庭心猿を特に心に留めるようになったのは、『来訪者』のモデルになったことのほか、石川の次の記述が気になったからでもある。

 今まで書いてきた心猿の行状は事実であるが、われわれ仲間はけっして彼を軽んじていたわけではない。猪場毅の業績として『樋口一葉全集』六冊、『一葉に与へた諸家の書簡』一冊、岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事、東京堂『世界文明辞典』の西洋篇、俳人伊庭心猿として句集『やかなぐさ』、豆本仕立の随筆集『絵入東京ごよみ』『絵入墨東今昔』等のすぐれた著書がある。中でも『墨東今昔』の「木歩の生涯」*4は、心猿の傑作の一つであると高須茂が賞讃している。(石川桂郎「此君亭奇録―伊庭心猿」『俳人風狂列伝』中公文庫p.42)

 「辞書好き」として気になったのが、「岩波の新村出『新辞苑』の追加増補の仕事」という記述なのだった。この『新辞苑』というのは、実は『広辞苑』を指し、新村出の『新辞苑』は云わば幻の辞書の名前、ということになっている。
 新村は、はじめ岡書院の岡茂雄の懇請により、溝江八男太の協力を条件に『辞苑』の出版を引き受けることとなるのだが、それが博文館に移譲されてからも、岡は陰に陽に協力を惜しまなかった。『辞苑』刊行(1935年)後、百科項目を殆ど削除する形で完成した(1938年末)のが、小型国語辞典の『言苑』である。
 『辞苑』の方は、刊行直後から改訂作業が始まり、1941年に改訂版の刊行を目指したが間に合わず、戦後も岡は交渉を続けるが、博文館・博友社は改訂版の刊行を拒否した。新村の息子の猛の交渉によって、岩波書店から改訂版が出る運びにはなったが、岡は新村に「辞苑」という書名はなるべく使わぬようにと何度も「進言」したらしい。しかし結局『広辞苑』が採用されることになり、後には岡の懸念した通り、岩波と博文館との間で係争が起ってしまう。そこに至るまでの経緯については、岡の「『広辞苑』の生まれるまで」(『本屋風情』中公文庫1983←平凡社1974*5)に詳しい。ただし岡のこの文章は、『新辞苑』という書名には触れていない。
 『広辞苑』の書名は当初、新村から『辞海』『辞洋』『言洋』等がよいとの要望があり、それらのうちの『辞海』が仮称として択ばれていたという。しかし、

 昭和二七年に、新たに金田一京助編『辞海』が三省堂から刊行されるに及んで別の名称を考えなければならなくなった。岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂した。『辞苑』は出の命名であり、これがもとであり、版を重ねて読者を重ねて読者を獲得してきたこともあっての判断と思われる。岡の意見も聞き、彼は「辞苑」を使うと博文館との関係で係争になる危惧を表しつつ、これがベストとの判断であれば諒とするということであった。岡には、自分が生みだした『辞苑』への思い入れがあったであろう。出は「大辞苑はぎょうぎょうしからむ」と日記に書き、「広辞苑」がよいという考えであったが、岩波書店が「新辞苑」を主張し、昭和二九年三月には、いったん「新辞苑」に確定した。書名は出版社のイニシアチブが強いわけである。出の日記、三月二八日には「岩波書店の稲沼氏来談、辞書の題名につき熟議」、同四月二六日には「岩波書店布川氏、『新辞苑』の書名のことにつきて来談」とあり、岩波書店が出に説明、説得しようとした形跡がうかがえる。
 その後、時を経て昭和二九年の年末、出が「新辞苑」の序文を書き送ったあとの年明け一月一二日、岩波書店から、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると電話があった。そして一月三〇日、「岩波の稲沼氏より談話あり、『新辞苑』の名を撤回して『広辞苑』として登録することにし、法律上の用意を堅固にするとのよし」と日記にある。急転直下『広辞苑』となった。(新村恭『広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡』世界思想社2017:178)

 つまり『新辞苑』は、最終的に幻となったものの、いったんは「確定」した書名なのだった。また新村恭氏によれば、岩波と博文館・博友社との係争の結末については、「詳細は不明だが、(略)岩波から博友社に一定の金が支払われたと推測される」(同書pp.178-79)という。
 さて猪場は、『辞苑』改訂作業のどの段階で加わったか。
 新村猛『「広辞苑」物語―辞典の権威の背景』(芸生新書1970)によると、それは戦後の1948年のことであるらしい。

 意外に難航した編集体制の再編がようやくでき、岩波書店内に国語辞典編集部が発足したのは昭和二十三年九月のことであります。編集主任には市村宏さん(現東洋大学教授―当時、引用者)をお迎えすることができました。辞典編纂の経験に富む方であり、書店側の紹介によって父が委嘱して引受けていただいたわけです。市村さんのほかに、編集部には関宦市、猪場毅、横地章子、長谷川八重子、藤井譲、佐藤鏡子、木村美和子の諸氏が参加され、当初はたしか五、六人で補訂作業が始まったようにおぼえています。(『「広辞苑」物語』p.170)

 猪場が編集部内で具体的に何を担当していたのかは、残念ながら今のところ不明である。現行の『広辞苑』第七版(2018)巻末の「初版から第六版までにご協力いただいた主な方々」のなかにも、市村宏の名はあるけれども、猪場の名は見当らない。

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

荷風を盗んだ男: 「猪場毅」という波紋

  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本
雑魚のととまじり

雑魚のととまじり

俳人風狂列伝 (中公文庫)

俳人風狂列伝 (中公文庫)

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

広辞苑はなぜ生まれたか―新村出の生きた軌跡

  • 作者:新村 恭
  • 発売日: 2017/08/04
  • メディア: 単行本

*1:ごく最近も、『幻想と怪奇3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ』(新紀元社)が出たばかりである。荒俣氏は平井の年譜の作成を了え(近く刊行される予定とか)、同書に「平井呈一年譜の作成を終えて」(pp.73-86)を寄せている。平井を知る上では今後必読の文章となろう。

*2:ちなみに同書では、名の「毅」にほぼ「たけし」とルビを振っているが、「はじめに」では「つよし」と振っている。

*3:俳人風狂列伝』には、『荷風を盗んだ男』の編者解説「もう一人の来訪者、猪場毅」も言及している。『雑魚のととまじり』に猪場が登場することは、この解説で知ったのである。

*4:富田木歩は猪場の句作の師。『荷風を盗んだ男』はプロローグとして木歩の短文「芥子君のこと」を掲げる。芥子君とは、猪場が十四歳で得た俳号・宇田川芥子をさしてそう言っている。

*5:長らく版元品切だったが、一昨年、角川ソフィア文庫として復刊された。もっとも、新たな解説等が附されたわけではなく、中公文庫版の内容のままである。